2013年09月01日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 32回「ローマの信徒への手紙9章30〜33節」
(12/1/29)(その1)

30〜31節「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、
しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めて
いたのに、その律法に達しませんでした。」

 イスラエルの選びの続きです。イスラエルの人々は、この選びが、血統や業
によると解釈する傾向がありました。が、それはそうではありません。神の自
由な選びによるものです。それゆえ、イスラエルが選びによって与えられる使
命もさまざま、逆に、選ばれなかった、とされる民についても、驚くべき使命
が用意されていました。
 が、その状況、イスラエルの実が選ばれているという状況が、イエス・キリ
ストの到来、十字架の血による新しい契約において一変しました。何と、今ま
で、完全に選びの対象外とされてきた異邦人が、選ばれる、いや、異邦人こそ、
新たな契約に与る者、という時代が来たのです。が、異邦人はいかにして選び
の民とされるのでしょうか。それこそ、「信仰の義」によってです。しかし、
この点についてはすでにふれられたところなので(3章)、ここではパウロは確
認するに止まります。
 むしろ、問題は、かつて選びの民、契約の民とされたイスラエルです。新し
い契約の締結に際し、イスラエルはどうなったのでしょうか。この契約は全て
の民を対象とするものですから(マタイによる福音書28:19)、当然イスラエル
も含まれるはずです。しかし、現実には、イスラエルの一部は、いや、一部ど
ころではなく大部分は、ほとんどはこの契約から漏れる、という事態を生じま
した。なぜでしょうか。二つの理由があります。
 一つは、すでに古い契約の時代にすでに起こっていたことです。イスラエル
の民は、選びの民とされたのに、律法による義を求めることに走ったがゆえに、
義とされることができない、契約が全うされない事態に陥っていたからです。
31節において触れられているとおりです。
 もう一つは、それにもかかわらず、イスラエルは、そのイスラエルに救いを
もたらすイエス・キリストに躓いたことです。本日のテキストは、イスラエル
がイエス・キリストに躓いたことがテーマです。

32〜33節「なぜですか。イスラエルは信仰によってでなく、行いによって達せ
られるかのように考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者
は、失望することがない』と書いてある通りです。」

 さて、ここに出てくる石ないし岩ですけれども、その堅固さ、不変性のゆえ
に、多くの宗教において、神の依代、神のシンボルとされてきました。日本で
は、石そのものをご神体として祀る石神信仰があります。石神は、地境におい
て他との境界を守る神であったり、地下界と地上界とをつなぐ神であったりし
ました。
 旧約聖書においては、石(岩)が神そのものであったり、神の依代であったり
することはありえませんが、その堅固さ、永遠性のゆえに、神を「たとえるも
の」として用いられてきました。たとえば詩編18:3で、詩人は、「主は私の岩、
砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔」
と詠っています。ですから、岩なる神は、どんな困難にも、必ず助けを与えて
くださるはずでした。
 ところが、その神がつまずきの岩(石)ともなられることとなりました。預言
者時代以降のことです。例は少ないですが、イザヤ書8:14には、「主は聖所に
とっては、つまずきの石、イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩、エルサ
レムの住民にとっては、仕掛け網となり、罠となられる」とあります。
 何と深い預言者的洞察でしょうか。もちろん、「滑らかな舌はつまずきを作
る(箴言26:28)」といった格言はすでに存在していました。しかし、たとえ聖所
において礼拝を守り、神の王国、聖なる町シオンの住民としての誇りを持って
いたとしても、心の中に背信のある者にとっては、神そのものがつまずきとな
る、ということです。神は、逃れ場、避けどころとしての岩ではなく、つまず
きの石ともなられるのです。
 しかし、この思想はユダヤ教では、発展しませんでした。神の前に正しくあ
れば、正しくあろうとすれば大丈夫だ、と考えたからでしょうか。
 むしろ、ユダヤ教では、困難に直面したイスラエルを、神は石を遣わして助
けてくださる、という思想の方が発展していきました。
 この思想の始まりも預言者イザヤでした。イザヤはイザヤ書28:6に曰く、
「それゆえ、主なる神はこう言われる。『わたしは一つの石をシオンに据える。
これは試みを経た石、固く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てる
ことはない。』」
 再建の困難に直面しても、神がシオン・エルサレムに据えられた一つの石が、
「隅の石」、土台となるだろう、というのです。この石とは何か。それは、
「律法であり、神殿である」、と、ユダヤ教では解釈してきました。

(この項、続く)



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