2013年08月25日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 31回「ローマの信徒への手紙9章24〜29節」
(12/1/22)(その2)
(承前)

 まず、憐れみ、特に神の憐れみとは何でしょうか。
 「憐れみ」と訳されている語は、ヘブライ語では「ヘセド」と言います。
「ヘセド」は、「愛」とか、「慈しみ」と訳されることもありますが、それは
実は「憐憫の情」のことではありません。その点、日本語の「憐れみ」という
語が示す意味と大いに違います。契約関係にある者同士での助ける義務・責任
を意味します。たとえばサムエル記下20:8、サウル王に殺されそうになってい
るダビデが、サウル王の息子、ヨナタンに助けを求めている場面において、ダ
ビデがヨナタンに「あなたは主の御前で僕と契約を結んでくださったのですか
ら、僕に「慈しみ(「ヘセド」)」を示してください」と言います。兄弟の契
りを結んだ(ダビデとヨナタンは兄弟の契りを結んでいました)二人の間では、
助け合うのは当然だ、というわけです。
 神と人間との間でも同様です。「神は、神と契約関係にある民、つまり選び
の民イスラエルに対して、しかも契約が正しく守られるかぎりにおいて、助け
を与える」、これが本来の神の「憐れみ」(「ヘセド」)です。ですから、イ
スラエルの「義なる者」は神の「憐れみ」を求める資格を有しています
(詩編119:49など)。が、神の前に不義なる者、ましてや、神と契約関係にな
い異邦人にとっては、神の「憐れみ」は、縁のないものだったのです。
 しかし、捕囚期以後、神の「憐れみ」は、「イスラエルに対しては」、深め
られていくこととなりました。契約違反をしたイスラエルに対して、預言者は
神の「憐れみ」を説きました。この神の「憐れみ」は、契約違反をした者をも
赦す、赦しの恵みだったのです。たとえばエレミヤは、背信のイスラエルに次
のように言います。「背信の女、イスラエルよ、立ち帰れと主は言われる。わ
たしはお前に怒りの顔を向けない。わたしは慈しみ深く(「ヘセド」)、とこ
しえに怒り続ける者ではないと主は言われる(3:12)」。が、こうしてイスラ
エルへの神の憐れみが深められていく一方で、異邦人は、神の憐れみからます
ます排除されていきました。
 この時代、ユダヤ主義の急先鋒であったファリサイ派に属するパウロが、神
の「憐れみ」が異邦人に向けられている、と言うとは、一体どうしたことなの
でしょうか。
 それは、パウロはここでは直接には触れていませんが、神が、キリストの十
字架を通して、すべての民と新しい契約を結ばれたことによる、とパウロは考
えているのです。主イエスは渡される夜、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、12
人に渡され、「これは、多くの人々のために流される血、契約の血である(マ
ルコ14:24および平行記事)」と言われました。同じ言葉は、パウロ自身によっ
て、コリントの信徒への手紙一11:25に再録されています。この契約はどのよう
な契約なのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架による贖いの契約
です。そして、ここにイスラエルだけでない、異邦人にも及ぶ神の国の教会が
成立したのです。ゆえに、神の「憐れみ」が、異邦人にも、つまり、すべての
民に及ぶこととなったのです。パウロは、この救済の時代の到来を、復活のキ
リストとの出会いによって知ることとなりました。
 パウロは、ここでその喜びを告げているのです。パウロは、この救いの時代
への転換が、すでに旧約聖書の時代に預言者によって預言者によって預言され
ていた、とホセア書2:25、2:1を引用しつつ主張します。

25〜26節「ホセアの書にも、次のように述べられています。『わたしは、自分
の民でない者を自分の民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。「あ
なたたちは、わたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の
子と呼ばれる。』」

 ホセア書の原文では、「自分の民でない者」また「愛されなかった者」と言っ
ても、それは決して異邦人のことではなく、イスラエルの中で「棄てられた」
と見られた者のことでした。が、パウロの牽強付会はあるとしても、捕囚期に、
神の「憐れみ」の将来にわたる拡大が予感されていたことは確かかもしれませ
ん。
 が、「イスラエルが『憐れみの器』とされる」とは一体どういうことなので
しょうか。イスラエルは「怒りの器」とされていたのではないのでしょうか。
それは、こういうことです。イスラエルが「憐れみの器」とされるためには、
一旦の遺棄が必要でした。そのことが、27〜29節で述べられています。

27〜29節「また、イザヤはイスラエルについて叫んでいます。『たとえ、イス
ラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地
上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。』それはまた、
イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。『万軍の主がわたしたちに子
孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにさ
れたであろう。』」

一旦棄てられたイスラエルが、どのようにして、再び「憐れみの器」とされる
のか、次回以降、詳しく学んでいくことといたしましょう。

(この項、完)



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