2013年08月18日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 31回「ローマの信徒への手紙9章24〜29節」
(12/1/22)(その1)

24節「神はわたしたちを憐みの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の
中からも召し出してくださいました。」

 神のイスラエル全体の選びが出発点となって議論が進められています。が、
それは神の自由な選びに基づく、ということです。血統に属してはいても選ば
れなかった者がおり、また、血統に属していた上で、業が悪くなかったにも拘
わらず選ばれなかった者もおります。さらに、選ばれなかった者にも、大切な
役割が与えられ、やがてイスラエルにも「怒りの器」としての役割が割り当た
られることとなります。
 そこで、いよいよ「憐みの器」としての選びが与えられることとなります。
が、「憐みの器」とは何なのか? 「憐みの器」に関しては、ユダヤ人(イス
ラエル)ばかりでなく、異邦人の中からも召し出されている、とありますので、
まず、「異邦人」とは何なのか、という問題から入っていくことといたしましょ
う。
 そもそも、創世記の天地創造の物語によれば、神は最初の人アダムを造られ、
アダムから全人類が分かれていったのです。途中、ノアのとき、大洪水を体験
しました。人類は一旦は滅びますけれども、ノアとその家族は大洪水を耐え抜
き、そこから民は全地に広がって行きます。創世記10章には、「民族表」が出
ています。資料が書かれた時代の時代的制約はありますけれども、全世界が網
羅されています。バベルの塔のエピソードは、この拡散が助長された物語です。
よって、地上のすべての民は、神の被造物、正確に言えば、被造物の子孫、そ
の意味では、すべての民族が「神の子」なのです。
 なのに、その民の間に、イスラエルと異邦人(ヘブライ語で「ゴーイ」)と
の区別が生じたのはなぜでしょうか。ちなみに、「ゴーイ」という語は、「民」
という意味でも用いられる語ですが、「民」一般については「アム」という語
があり、「ゴーイ」という語が「民」という意味で用いられるのは、イスラエ
ル以外の「民」を指す時だけです。それは、ひとえに、「神がイスラエルを選
ばれた」という出来事に由来するのです。
 結果、イスラエルは、「神に選ばれた民」として唯一の神を排他的に礼拝す
ることが求められました。他の神々、異邦人が拝む神々は、偶像として貶めら
れ、イスラエルがそれらを拝むことは厳しく禁じられました。しかし、異邦人
も「神の造りたまいし民」に変わりありませんから、イスラエルの中に「寄留
者」として住む場合には大切にされ(出エジプト記22:20)、イスラエルとの
商取引も対等に行われ(申命記23:21)、国際条約も結ばれました(ルツ記な
ど)。さらに、それは、イスラエルから見ると「真の神」ではないとしても、
寄留者には、「信教の自由」もあったようです(出エジプト記22:20)。もち
ろん限度を超えてはなりませんが、イスラエルは異邦人と対等の立場で付き合っ
ており、つまり、異邦人は、そもそもは「選民予備軍」として見られていたの
です。
 選民イスラエルと、「選びから漏れた異邦人」との間の線引きが厳しくなっ
てくるのは、捕囚期以後のことです。
 捕囚期、預言者はイスラエルの偶像礼拝を厳しく糾弾しました。ホセアによ
れば、偶像礼拝に走ったイスラエルは、淫行の女性です。同時に、偶像礼拝を
行い、唯一の神に背く異邦の民には、厳しい裁きが下される、とされます。イ
ザヤはバビロンについて、「お前の高ぶりは、琴の響きと共に陰府に落ちた。
蛆がお前の下に寝床となり、虫がお前を覆う(イザヤ14:11)」と、その裁き
が永遠の裁きであることを告げています。
 よって、帰還後のイスラエル再建は、イスラエルの浄化、異邦人の排除から
始められることとなりました。エズラ記9〜10章によれば、神殿の再建のために
エルサレムに派遣されたエズラが真っ先に手を付けたことは、イスラエルの民
にして異邦人と結婚している人を引き離すことでした。エズラ記10:18-43には、
祭司の一族、レビ人、イスラエル人にして、異邦人の妻をめとり、そして引き
離された人のリストが載っています。これ以後、異宗間での結婚、そして異邦
人との結婚が厳しく禁じられることとなりました。結婚だけではありません。
異邦人の風習、習慣に倣うこともいけません。接触することすら厳しく禁じら
れることとなりました。当然、異邦人がユダヤ教の儀礼に与ることは、一切禁
止され、異邦人は「救いに与ることのできない民」とされていったのでした。
 が、一方、捕囚期以後の時代は、ユダヤ人の海外進出も進み、ユダヤ教の異
邦人伝道が盛んに行われた時代でもありました。が、その場合でも、異邦人の
救いは、ユダヤ教への改宗が前提であって、しかも「元異邦人」は、ユダヤ教
徒の低いランクに加えられるだけでした。そして、パウロの属していたファリ
サイ派は、ユダヤ教の中でも、イスラエルの浄化、異邦人の排除をより強く求
める立場に立っていたのです。
 そのパウロが、「憐みの器として異邦人が選び出されている」と言うとは、
一体どうしたことなのでしょうか。

(この項、続く)



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