2013年08月11日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 30回「ローマの信徒への手紙9章14〜23節」
(12/1/15)(その2)
(承前)

 神が焼き物師、人間がその焼き物師によって造られる器にたとえられていま
す。器が焼き物師に文句を言えないごとく、人間は神に対して抗弁できない、
ということです。これは大筋パウロの言うとおりなのではないでしょうか。も
ちろん、近代人(現代人)の中には「自分は神に造られたものではない。よっ
て神に生き方を支配されることはない」と考える人もいるでしょう。実存主義
者のJ.P.サルトルは「人は自ら造るところのものである」という主旨のことを
言っています。もちろん、人間が自らの努力によって作り上げるところのもの
はあるのですが、しかし、出発点は、そこは与えられたものからスタートしな
ければならないのではないでしょうか。日本でも、人間の才能を器にたとえ、
「器の大きい人、小さい人」という言い方をしてきました。人間が「造られた
者であること」をわきまえているからなのではないでしょうか。聖書は、その
造られた方が「神である」とはっきり言っているのです。
 とは言え、焼き物師と器との関係は微妙です。焼き物師は、もちろん丹精込
めて器を焼くのですが、どうしても出来のよいものと悪いものとができてしま
うのです。焼き物師は、出来のよいものは作品として用いますが、出来の悪い
ものは壊してしまいます。
 神とイスラエルとの関係についても同じです。神は人間を「神のかたち」に
創造されました。丹精込めて造られたのです。その「よさ」は、特に「神に選
ばれた民」イスラエルに現れるはずでした。「金の器」が期待されました。と
ころが、実際に焼き上がったのは「土の器」でした。「土の器」とは、ダメな
器のことです。焼き物師は「土の器」を壊してしまいます。イスラエルを滅ぼ
す、という決断をされるのです。哀歌4:2では「貴いシオンの子ら、金にも比
べられた人々が、なにゆえ、土の器とみなされ…」とあります。そして、エレ
ミヤ書19:11ではこう言われています。「万軍の主は言われる。陶工の作った
物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民
とこの都を砕く。」要するに、神に造られたにも拘わらず、神に背く者、罪に
ある者は壊されるしかない。これが旧約聖書の結論でした。
 この「正しくない者は裁かれて当然」という閉塞状況を打ち破ったのはイエ
ス・キリストの十字架による贖いでした。キリストは「罪ある者」の罪を贖う
ために十字架に架かられました。つまり、罪ある者をそのままで生かし、用い
てくださる道を開いてくださったのです。土の器が棄てられるのではなく、そ
のままで用いられる道が開かれたのです。この時代の転換点は、イエスの十字
架刑の際、イエスが売られた金で、陶器職人(=陶工=焼き物師)の畑が買わ
れて、つまり買い取られたエピソード(マタイによる福音書27:3以下)に象徴
されています。「土の器」が贖われたのです。
 さて、パウロはどこに立っているのでしょうか。旧約聖書でしょうか。そう
ではありません。キリストの贖いに、です。21節の「焼き物師は同じ粘土から、
一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があ
るのではないか」という表現は、知恵の書15:7の「焼き物師は苦労して粘土を
こね、生活に役立つものを一つ一つこしらえる。同じ材料の土から、高尚な用
途のための器と、そうでない器とが同じように造られる」という表現と同じで
す。しかし、そこから先が全く異なります。知恵の書では「だから、それ(そ
うでない器)には大した用途はない」であったのに対し、パウロは貴くないこ
とに用いる器(土の器、罪ある者)には、「怒りの器」という大切な用途、貴
い働きがある、と言っているのです。
 「怒りの器」とは何でしょうか。実は、「怒りの器」という表現は、全聖書
中、ここしかありません。よって、この言葉でパウロが何を伝えようとしてい
るのか、正確に把握するためには、ここの文脈から読み取るしかないのです。
そもそも、神の怒りは罪人に向けられるものでありますから、この器は、本来
は壊されるべきものでした。しかし、この器は、神の寛容によって耐え忍ばれ
るものともなりました。神の憐れみがいかに大きいか、を示すために用いられ
たのです。
 さて、ところで、この「怒りの器」とはだれのことでしょうか。それはパウ
ロ自身です。そして、パウロの属するイスラエルです。自ら義を積もうとして、
最も大いなる罪を犯し、キリストを受け容れず、クリスチャンを迫害しました。
しかし、神は彼らを「怒りの器」とし、耐え忍ばれました。神の憐みがいかに
大きいか、を示す器となったのです。イスラエルも、パウロの後を辿って、
「怒りの器」としての歩みを歩んできたのです。
 結局、神のイスラエルへの選びは、罪人を選ぶ選びであった、ということで
す。神の憐みがいかに大きいものであったか、私たちも、その神の憐みのうち
に入れられていることを、感謝をもって受け止められますように、祈りましょ
う。

(この項、完)



(C)2001-2013 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.