2013年08月04日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 29回「ローマの信徒への手紙9章6〜13節」
(12/1/8)(その3)
(承前)

 パウロが、ユダヤ教、そしてキリスト教をも含めて、当時の大勢に逆らって、
イスラエル全体の選びを「有効だ」と主張したのはなぜでしょうか。この2つの
事例から明らかになってくることは、神のイスラエルへの選びが、申命記7:7
で明らかとなった「救いのテストケース」であることに加えて、そこ、神がイ
スラエルを選ばれたことに、神がキリストを通して示された愛が示されている
からにほかなりません。キリストは、「正しい者」「義なる者」のみを愛され
たわけではありません。むしろ、「罪ある者」を一方的な愛によって贖ってく
ださったのです。神のイスラエルへの愛は、キリストの愛の延長線上にあった、
ということです。
 イスラエルは、この神の愛を、2つの立場どちらにしても、血統によるもの、
業によるもの、と誤解し、本質を見失いました。それゆえ、キリストの贖いの
愛を受け容れることができず、迫害にまで至る事態になっているのです。これ
がパウロの主張です。
 私たちはどうでしょうか。キリストによる選びを間違って受け止め、イスラ
エルと同じ轍を踏んではいないでしょうか。罪人を愛するキリストの愛を、正
しく受け止めていきたいものです。

(この項、完)


第30回「ローマの信徒への手紙9章14〜23節」
(12/1/15)(その1)

14節「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうでは
ない。」

 パウロは、イスラエルの選びについて語ってきました。その当時のユダヤ教
主流派に逆らって、パウロはイスラエル全体の選びに固執します。なぜなら、
神のイスラエル全体の選びは、キリストの愛に通じるからです。
 にも拘わらず、イスラエルがキリストを受け容れず、それどころか、キリス
トに従う者を迫害する、などということがなぜ起こるのでしょうか。それは、
イスラエルが、神のイスラエルの選びを、血統によるもの、あるいは業による
もの、と誤解したからです。が、神のイスラエルへの選びは、神の自由な選び、
神のご意思によるものだった、ということです。
 そこで、ここから本日のテーマに入って行くのですが、「では、選ばれなかっ
た者はどうなるのか」ということです。神の選びに不義はないのか。もしない
としたら、「選ばれなかった者」を神はどうしようとしておられるのか、棄て
られるのか、という問いに入って行くこととなります。

15〜18節「神はモーセに、『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈し
もうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努
力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、『わた
しがあなたを立てたのは、あなたによって私の力を現し、わたしの名を全世界
に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神はご自分が憐
れみたい、と思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる
のです。」

 「選ばれなかった者」の典型として、ファラオが取り上げられます。ファラ
オと言えば、エジプト王の称号です。聖書のなかでは、創世記と出エジプト記
に多く登場します。当然のことながら、イスラエルの血統には属しません。が、
創世記の時代、特にヨセフの時代においては、ファラオはイスラエルの味方、
その意味で、神に選ばれたのでした。イスラエルの「特別名誉市民」に任じら
れてもいいくらいでした。ところが、出エジプトの時代になると、ファラオは、
神の敵対する者となります。神の民イスラエルを弾圧し、出エジプトを妨害し
ます。時代が下るにつれ、ファラオの「神の敵」としてイメージが定着してき
ます。外典においては、歴史上のファラオが言及されるケースが3回ありますが、
そのすべてが「神に敵する者」としてです。
 それでは、ファラオは、血統がちがう上に、業が悪かったから神に選ばれな
かったのでしょうか。ファラオは、神から空しく棄てられたのでしょうか。そ
うではありません。ファラオには、血統を支えることとは違う選びが与えられ
ていたのです。それは「ファラオの心をかたくなにして、神の力(名)を全世
界に知らしめる」ための選びだったのです。要するに、「神の全能を示すため」
です。しかし、だとすると、神の全能は、神の「わがまま」なのではないので
しょうか。

19〜23節「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責
められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と。人よ、
神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた者が造った者に、『どうして
わたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土か
ら、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限
があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようしておられた
が、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれた
とすれば、それも、憐みの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち
に、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。」

(この項、続く)



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