2013年07月14日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 29回「ローマの信徒への手紙8章31〜39節」
(12/1/1)(その2)
(承前)

 しかし、ユダヤ人によるパウロに対する迫害を考えるにあたっては、パウロ
自身が、ユダヤ教徒として、クリスチャンになる前に、教会に対する熱心な迫
害者であったことを忘れるわけにはいきません。使徒言行録においても、8:1
および9:1〜2に、次のように記されています。

8:1「サウロ(パウロ)は、ステファノの殺害に賛成していた。」
9:1〜2「さてサウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大
祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道
に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するた
めであった。」

 この記事を私たちは忘れるわけにはいきません。さらに、パウロ自身もかつ
ての自分を振り返り、「熱心の点では教会の迫害者(フィリピ3:6)」とか、「わ
たしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていた(ガラテヤ1:13)」と
述べています。パウロは、「過去の」、迫害していた自分をどのように受け止
め、そして、「今の」ユダヤ人による迫害をどう受け止めているのでしょうか。
 旧約聖書の時代においても、神の民イスラエルに対する迫害はありました。
旧約聖書ヘブライ語では、「迫害する」は「ラーダフ」と言います。「ラーダ
フ」はもともと「追い詰める」という意味の語で、敵を追い詰めるときはいい
のですけれども、神の民イスラエルを追い詰めるとなると、それは「迫害」、
神に対する反逆となるのです。旧約聖書ヘブライ語の世界は、単純明快でした。
 ところが、旧約聖書がギリシア語に訳され、「ラーダフ」に「ディオーコー」
という訳語があてられるようになると、事情はちょっと複雑になりました。
「ディオーコー」という語には、「追い詰める」「迫害する」という意味はも
ちろんあるのですが、一方で、「追い求める」、しかも「善いものを追い求め
る」という意味もあったのです。それゆえ、旧約聖書において、悪い異邦人が
 神の民を迫害するときも、もちろん「ディオーコー」という語で表現されま
す。しかし、一方で、神の民である善良なイスラエルが義を追い求めるときも
(申命記16:20)、平和を追い求めるときも(詩編34:14など)、「ディオーコー」
という語で表現されたのです。同じ「ディオーコー」という語です。それゆえ、
迫害は、もちろん、最初から悪意100パーセントの迫害もあるでしょうが、熱
心さが、それもよいものを求める熱心さが余って迫害に発展することもある、
という思想へと発展していくこととなったのです。
 新約聖書においてはどうでしょうか。マタイによる福音書では、10:23、23:24
で、イエスの弟子に対する迫害について、「ディオーコー」の語が使われてい
ます。ヨハネによる福音書では、イエスに対する迫害に「ディオーコー」の語
が使われています(5:16)。福音書では、神の民イスラエルに対してではなくイ
エスとその弟子に対する迫害に「ディオーコー」の語が使われています。福音
書においては、「ディオーコー」は専ら「迫害する」の意味で使われています。
 ところが、パウロにおいては変化が見られるのです。ローマの信徒への手紙
8:23で、クリスチャンに対する迫害を「ディオーコー」の語で表現しました。
しかし、その直後、9:30では、「義を求めること」、これはもちろん神の前に
善いことです、に「ディオーコー」の語を使っているのです。すなわち、パウ
ロは、「ディオーコー」という語に、「神の前に義を求める思い」と「迫害」
とを重ね合わせています。ここに、パウロが、かつての自分をどう見ているか、
今起こっている迫害をどう見ているか、ということを解明するカギがあるので
はないでしょうか。
 そもそも、9:1〜3は、古来聖書解釈者を大いに悩ませてきた箇所です。あれ
だけ強く律法による義を否定し、信仰による義の喜びにあふれていたはずのパ
ウロが、なぜ、未だに信仰の義を見いだすことができず、しかもクリスチャン
を迫害するユダヤ人に、「(自分が)キリストから離され、神から見捨てられて
もいい」と思うくらいに心を寄せているのか、理解不可能だ、というわけです。
パウロの精神は分裂してしまっているのではないのか、結局パウロはユダヤ人
でしかなかったのか、等、諸説紛々です。
 が、先ほどの「ディオーコー」についての考察を踏まえて考えてみると、パ
ウロは、ユダヤ人によるクリスチャンに対する迫害を、単純に「悪だ」と決め
つけるのではなく、かつての自分の行為と重ね合わせて、神の前に義なること
を求めているのだけれども、熱心に求めれば求めるほど、神の前に「悪」とし
か言いようのない「迫害者」にまで落ちてしまう、その悪循環の過程である、
と受け止めている、と考えているのではないか、と考えられるのです。パウロ
にとっては、同胞たるユダヤ人が、義を求めているにもかかわらず、悪に陥っ
てしまうその様が、痛ましくて、痛ましくてたまらないのです。そこで、ここ
より11章にかけて、それでは一体、イスラエルの何が間違っていたのか、そし
てそこから脱出するにはどうしたらよいのか、を考察することとなります。

(この項続く)



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