2013年06月30日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 28回「ローマの信徒への手紙8章31〜39節」
(11/12/18)(その2)
(承前)

 それが、御子イエス・キリストが十字架の死によって代価を支払ってくださ
り、よみがえりによって罪の支配に勝利してくださったがゆえに、人類そして
被造物には、霊の支配の下で自由となる道が開かれたのです。そして、この恵
みを受け容れた者、その者をクリスチャンと言いますが、ここで言う「わたし
たち」はクリスチャンのことですが、将来よみがえりの命が与えられ、キリス
トと共に神の国の相続人となることが約束され、保証されているのです。ここ
までは、すでにふれられたことです。
 が、これらの事実を受け止めたクリスチャンにはさらに大きな恵みが類推さ
れる、これが今日新たに述べられることです。すなわち、選び、神の執り成し、
神がすべてのものを与えたもうたこと、の三つです。神に選ばれた者として、
神の執り成しがバックにあり、しかもすべてのものを与えられるとすれば、た
とえどのような者が、他のすべての被造物が迫害して来ようとも、勝利できる、
いや、負けるわけがない、ということなのです。ゆえに、勝利宣言なのです。
 ただし、この勝利の三点セットは、類推に基づいています。神の選びについ
ては、天地創造の前に神が選びをされておられるところを見た人がいるわけで
はありません。また、キリストが神の右に座しておられるところを直接見た人
もいません。「御子と一緒にすべてのものを賜る」のも、将来の期待です。と
は言え、キリストの十字架に触れ、受け入れた者にとっては、神の愛は、選び、
執り成し、そしてすべてのものの授与を含むくらい大きなものとして受け止め
られた、ということなのです。ですから、キリストから離れないこと、霊の支
配から離れないことによって、クリスチャンは勝利宣言をわが物とすることが
できるのです。
 こうして、神の愛が他の被造物による迫害に対する盾だ、ということが分かっ
たところで、この迫害の具体相に触れていくことといたしましょう。

35〜39節「だれが、キリストの愛から、わたしたちを引き離すことができましょ
う。艱難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。『わたしたち
は、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』
と書いてある通りです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、
わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたし
は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未
来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他の
どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛か
ら、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 まず、35〜39節の全体の流れを見てみましょう。今、現実にクリスチャンは
迫害に遭っています。その迫害の内容は、艱難、苦しみ、(狭い意味での)迫
害、飢え、裸(着るものがないこと)、危険、剣の七つが挙げられています。
一つ一つの項目について、その詳細を探っても無意味でしょう。「七」は完全
数ですから、この七つであらゆる種類の迫害を意味しているのです。そして、
38節以下では、それらの迫害を引き起こす原因、「もの」が示されています。
それによると、「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来
のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のど
んな被造物も」です。今度は七つではありませんが、天使も被造物の一つと考
えられていましたから、要するに、クリスチャン以外の被造物全体が、ありと
あらゆる形をとって迫害してくる、ということです。これではたまったもので
はありません。が、「他の被造物による総攻撃」という受け止め方は、パウロ
独自の、大変深い受け止め方なのです。
 そもそも、天地創造の物語は、ユダヤ教、キリスト教、共有のものです。ア
ダムとエバの堕罪の物語も共有しています。が、ここからが、ユダヤ教とキリ
スト教が分かれるところなのですが、ユダヤ教は、アダムの堕罪を、実は、さ
ほど深刻には受け止めていません。もちろん、後期ユダヤ教においては、アダ
ムは「罪の祖」でした。「大地はアダムを生み出さない方がよかった(ラテン
語エズラ記7:116)」とまで言われたほどです。しかし、それにも拘わらず、
ユダヤ教では、アダムがたまたまミスをしたことを攻めたてているだけなので
す。シラ書5:14〜15には、「主が初めに人間を造られたとき、自分で判断する
力をお与えになった。その意志さえあれば、お前は掟を守り、しかも快く忠実
にそれを行うことができる」とある通りです。アダムのすべてが罪に染まって
いた、などということは全くなく、小さなミスが傷口を広げた、と解釈してい
るのです。ですから、現代のある有名なユダヤ教のラビは、アダムの堕罪をむ
しろ肯定し、「アダムが楽園を追放されたのは、彼が『大人』になるために必
要に措置だった」とまで言っています。ユダヤ教においては、被造物とは「よ
いもの」なのです。

(この項、続く)



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