2013年06月16日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 26回「ローマの信徒への手紙8章18〜30節」
(11/12/11)(その2)
(承前)

 しかし、クリスチャン以外の全存在、被造物は未だに肉の支配の下にいます。
それが永遠の命に至る道ではなく、死、つまり滅びへ至る道である、という点
において、虚無の中に捕えられているのです。この「自分たち以外の存在が苦
しんでいる」という現実に対し、クリスチャンはどう対応したらよいのでしょ
うか。
 まず第一にクリスチャンが知るべきことは、アダムの時代と違って、キリス
トの時代である今日においては希望がある、ということです。なぜなら、同じ
立場にあったクリスチャンが神の子供(「子供」と訳されている語の原語は
「テクナ」で、「実子」の意)とされてのだから、現在クリスチャンでない全
存在も、同じ恵み、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかる可能性があるか
らです。アダムの時代と違って、絶望が支配しているわけではありません。
 しかし第二に、もうすでにクリスチャンがいる時代ですから、全存在の救い
のためにはクリスチャンの連帯が必要だ、ということです。クリスチャンが、
全存在と共にうめき、共に産みの苦しみを味わうことによって、全存在の救い
が一歩前進するのです。クリスチャンは、この世の苦しみを共に苦しむという、
先に霊の支配に入れられた者としての責任を負っているのです。
 しかし、実はクリスチャン自身も苦しんでいます。

23〜25節「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の
子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望
んでいます。わたしたちはこのような希望によって救われているのです。見え
るものに対する希望は希望ではありません。現に見えているものをだれがなお
望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐し
て待ち望むのです。」

 確かに、クリスチャンになったとしても、体の贖い、自身の復活はまだです
から、それをうめきつつ待ち望む、クリスチャンも「希望」状態にあることは
確かです。
 しかしながら、23〜25節は、クリスチャンをがっかりさせる内容も十分に持
ち合わせています。第一に、14節で、「神の霊によって導かれる者は神の子で
す」とあるように、クリスチャンはすでに神の子とされたはずなのに、23節で
は、「神の子とされること(原文は養子縁組)が、うめき待ち望まねばならな
いほど、将来のこととされてしまっています。第二に、その待ち望んでいる自
身の復活ですが、イエス・キリストの復活を目の当たりにしたはずなのに、
「目に見えないもの」とされ、クリスチャンは、「希望によってだけ生きる者」
とされてしまっています。クリスチャンであることは、そんなにも不確実な、
すなわち不安なことなのでしょうか。
 この不安に中で、カトリック教会は、「人が救われるためには、キリストの
贖いだけでなく、善行も必要だ」という教義を発達させてきました。すなわち
トリエント公会議において定められた教理に、「義認一回限り、即座に達成さ
れるのではなく、生涯を通して恩恵によって与えられた善行と秘跡とによって
増大するものである」と言われるごとくです。しかし、パウロはここで、キリ
ストの贖いは十分ではなく、クリスチャンといえども、まだ完全には霊の支配
の下にはいないのだ、ということを言おうとしているのでしょうか。このこと
を確かめるために、そもそもパウロの言う「希望」とは何なのか、を確認して
まいりましょう。
 振り返ってみるに、旧約聖書は「希望」のオンパレードでした。旧約聖書を
ギリシア語に翻訳するとき、ギリシア語で「希望」を意味する「エルピス」と
いう語、ないしはその関連語に翻訳されたヘブライ語の単語の数は、わたしが
数えただけでも17に上ります。が、そのすべてが「神を待ち望む」の意味で用
いられています。旧約聖書で言う「希望」は、神に、そして神のみ業を待ち望
むことに集中していきました。この「希望」は、終末論思想となり、旧約聖書
後のメシア待望論へとつながってまいります。
 ところが、一方、新約聖書の福音書では、「神を待ち望む」という意味での
「希望」という語は、類語も含めてほとんど用いられなくなります。ヨハネに
よる福音書に至っては皆無です。なぜなのでしょうか。それは、イエスが「時
は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:14)」と
宣言されて宣教を開始されたごとく、イエスによって、「希望」をもって待ち
望まれていた神の国、神の救いのみ業が成就したからです。福音書は、「希望」
の成就を告げているのです。
 それが、パウロになって、再び「希望」が取り上げられるのはなぜでしょう
か。十字架の贖いがやはり不完全だった、とでも言うのでしょうか。あるいは、
クリスチャンが霊の支配に入れられた、とは言っても、まだ不安定だ、という
ことなのでしょうか。そうではありません。クリスチャンがいただいている霊
の支配が、霊の初穂だからです。

(この項、続く)



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