2013年06月09日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
25回「ローマの信徒への手紙8章12〜17節」
(11/12/4)(その2)
(承前)
日本語の「子」という語も、かなり幅広い意味をもった語ですが、ギリシア
語の場合、子は子でもどんな子であるか、によって語そのものが違うので、や
やこしいのです。先ほども触れたように、養子縁組も含めて、親子関係にある
人の、子の方を「フィオス」と言います。が、その中でも、実の親子関係にあ
る親子のこのことは「テクナ」と言います。
以上を踏まえた上で、パウロは、16節、17節で、「クリスチャンは神と親子
関係にあるが、それは実の親子の関係だ」と言うのです。クリスチャンと神と
が実の親子関係にある、とは何を意味するのでしょうか。それは、相続権が確
かにある、ということを意味します。クリスチャンとして、やがてよみがえり
の命が与えられることが約束されているばかりではなく、キリストと共に神の
国を受け継ぐ保証が与えられている、ということです。よみがえりがなければ、
相続はないわけですから、よみがえりがそれだけ確かなこととして、クリスチャ
ンには保証されている、ということです。
ただし、この保証が実現するためには、条件があります。もう肉の支配に戻
らない、という義務を守ることです。肉の世界に戻ることなく、神の国の教会
に属し、霊の働きの下に歩み続けましょう。よみがえりの命をいただくまでは…
(この項、完)
第26回「ローマの信徒への手紙8章18〜30節」
(11/12/11)(その1)
18節「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取
るに足りないとわたしは思います。」
前回のところは、贖い出されて、霊の支配の下へ移された者、すなわちクリ
スチャンの義務と、クリスチャンに用意されている恵みについて学びました。
クリスチャンには、唯一、体の仕業を絶つ、すなわち肉の支配に戻らない、と
いう義務が課せられています。しかし、それさえ守れば、そこには大いなる恵
みが用意されています。神の霊によって導かれる者、すなわちまことのクリス
チャンには、神の子とされる恵みが用意されているのです。しかも、神の用意
されている養子縁組は、ほとんど実子の扱いです。相続権を付与され、つまり、
将来よみがえりのいのちを与えられ、キリストと共に神の国を受け継ぐことが
保証されているのです。
さて、ここからが今回ですが、クリスチャンは、すでに神の霊の下にはある
のですが、神の栄光の下にあるのか、と言えば、そうではありません。外なる
敵と、内なる弱さの前で苦しんでいます。また、クリスチャンの周囲には、そ
もそもまだ救いを得ることができずに苦しんでいる多くの同胞がいます。目の
前にある現実は苦しみのみ、と言ってもいいほどです。本当にクリスチャンに
は栄光が用意されているのでしょうか。そのように問わざるを得ない、それが
クリスチャンが当面する現実です。この問いに対してパウロは、18節で「現在
の苦しみは、将来わたしたち(クリスチャン)に現されるはずの栄光に比べる
ととるに足りない(原文は「つり合いが取れない」→栄光が比較にならない)」
と結論付けています。しかしその後、被造物(のちに触れるように同胞のこと)、
わたしたち(クリスチャン)自身には希望があること、そして神の霊によると
りなしがあることが述べられ、最後に、28〜30節でもう一度18節に戻り、将来
の栄光を確認して上でしめくくる、というのが本日のテキストの構造です。
キーワードは「希望」と「うめき」です。
まず、被造物の苦しみです。
19〜22節「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物
は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させ
た方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、
いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずか
れるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味
わっていることを、わたしたちは知っています。」
まず、被造物(言語では「クリシス」)とは何を指すのか、ということです。
1:20で言われているように、「自然界」を指す、という解釈と、非キリスト者
を指す、という解釈とに分かれているようですが、ここは、アダムの時代から
キリスト時代に転換した後の話ですから、クリスチャン以外の全存在と受け止
めるべきなのではないでしょうか。すべての人間、すべての存在がアダムと同
じ苦しみを味わいました。すなわち、神の光に照らされたとき、内側は罪にま
みれていました。ならば、ということで、神の掟に従って正しく生きよう、と
決心して動き出したとき、そこで直面するのが、自分自身の罪深さ、つまり自
分が罪の法則、肉の支配の奴隷となっている、という現実でした。クリスチャ
ンはかつては肉の支配の下にありましたが、キリストの贖いの恵みを受け止め
て霊の支配の下に入れられました。
(この項、続く)
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