2013年05月26日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 24回「ローマの信徒への手紙8章1〜11節」
(11/11/27)(その3)
(承前)

 そこで、霊に従う道、霊の法則の下で生きる道を選んだ者にとって、そこで
与えられる恵みの希望は何か? 9〜11節のまとめ部分で、霊に従って歩む道を
選び取った人々に、パウロは「あなたがた」と「二人称」で語り掛けます。

9〜11節「神の霊があなたがたの内に宿っている限り、あなたがたは、肉ではな
く霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者はキリストに属していませ
ん。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいて
も、霊は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させ
た方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中からよみ
がえらせた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの
死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

 神の支配が遍く行き渡るのは終末の時です。しかし、あなたがた、神の国の
先駆けとして建てられた、神の国の教会のメンバーとされているあなたがたに
は、神のご支配が、霊の支配という形で、あなたがたの内に神の霊が住むとい
う形で、すでに実現しているのです。霊は見えないものですから、霊が宿ると
いうことについて人はしばしば誤解をします。しかし、霊を送ってくださるの
は神ですから、神の霊があなたがたに、教会に宿っていることは確かなのです。
教会にしっかりとつながっているならば、体のよみがえりの希望が、失望に終
わることはありません。
 洗礼、聖餐を通して、霊の支配の下の道をしっかりと選びとってまいりましょ
う。

(この項、完)


第25回「ローマの信徒への手紙8章12〜17節」
(11/12/4)(その1)

12〜13節「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それ
は、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
肉に従って生きているなら、あなたがたは死んでいます。しかし、霊によって
体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」

 前回の終わりは、「教会は、霊の支配にゆだねられているところ」というこ
とでした。それで今日は、その霊の支配に委ねられているところの教会のメン
バー、クリスチャンの義務は何か、というところから話が始まります。
 ところで、「義務」と訳されている語ですが、この語には注意が必要です。
日本語で義務と言えば、心の問題ですが、ここで「義務」と訳されている語の
ギリシア語の原語は、債務、すなわち「借金」の意味なのです。「七十人訳聖
書」では、5回使われていますが、全部「借金」の意味です。新約聖書におい
ても同じで、マタイによる福音書8:21以下の「1万タラントンの借金をしてい
る僕の話」では、「借金」の意味でこの語が使われています。
 ところが、フィロから後期ユダヤ教にかけて、「借金」の語の別の使い方が
なされるようになってきました。それで、話がややこしくなりました。人間は
神から恵みをいただいたのだから、それに応答する義務があります。この義務
は、神に対する「借金」のようなものだ、というわけで、「神に対する義務」
を「借金」の語であらわすようになったのです。パウロも、「借金」の語を
「神に対する義務」の意味で用います。が、パウロの場合、「借金」の語を
「借金」そのものの意味で用いることもあり、さらには、「借金」の語で、
「借金」の意味と「神に対する義務」の両方の意味を込めることがあるので
(ローマの信徒への手紙13:8)、注意が必要なのです。
 13節で、二つの「義務」と訳されている「借金」の語が出てきますが、後者
の方、「肉に対する義務」は明らかに「借金」の意味です。「肉に対する義務」
とは、「肉についての借金」です。人が肉にあって生きている限り、人は罪の
奴隷です。アダムがそうであったように、人がそこから抜け出そうとしても、
罪に罪を重ねていくだけで、借金が増えるだけです。この「借金」がある限り、
肉の世界で生きざるを得ず、結局は死に至ります。
 しかし、キリストが人を罪から贖い出してくださった、ということは、この
莫大な「借金」を代わりに支払ってくださった、ということです。「借金」が
ありませんから、奴隷ではなく、自由人なのです。
 しかし、それでは神によって見受けされた人は、今度は神に対して「借金」
を負うことになるのではないか、神の奴隷となるのではないか、という疑問が
頭をよぎります。
 が、神は「無償で」贖いをなしてくださいました。すでに、3:24で述べられ
ていたとおりです。神に借金はありません。が、恵みをいただいたからには、
応答する「義務」があるのです。その「義務」が13節の「一つの義務」の「義
務」です。ここは「借金」ではなく、「神に対する義務」です。そして「神に
対する一つの義務」とは何か、と言えば、それは「体の仕業」を絶つ、という
ことなのです。そう、もう罪の奴隷とならないように「肉の支配」を絶つ、と
いうことなのです。つまり、肉からの自由、罪からの自由を保ち続けるように
する、ということです。

(この項、続く)



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