2013年05月19日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 24回「ローマの信徒への手紙8章1〜11節」
(11/11/27)(その2)
(承前)

 これで、法則の意味は分かりました。が、罪の法則からアダムを解き放つ霊、
もちろん神から遣わされる聖霊のことです、は、霊の法則としてではなく、霊
の自由として人間に臨むべきではないでしょうか。神は、罪の奴隷から解放さ
れた人間を、再び霊の奴隷にしようとでもしておられるのでしょうか。
 ある神学者は、法則は法則でも、罪の法則の下では人は奴隷状態とされるが、
霊の法則の下では人は子とされるので(8:14以下)、法則は法則でも、罪の法則
の法則と、霊の法則の法則では意味が違う、と説明します。しかしながら、こ
の説明は説明になっていません。パウロがもしそのような思いを伝えたいので
あれば、「霊の法則」などとは言わずに、8:14と同じように「霊の導き」と言
えばよいのです。パウロは、人間の罪の法則からの解放を説明するために、パ
ウロの全著作の中で、いや新約聖書全体の中でもここでしか用いられていない、
「霊の法則」という語をあえて使って説明しているのです。
 そもそも、人は「罪の法則」にいかにして対抗しうるのでしょうか。人が本
来備え与えられている「心の法則」、これも法則と言われている以上拘束力を
持つものですが、それでは太刀打ちできなかったのです。「罪の法則」には、
神から与えられた「霊の法則」を持ってでなければ、対抗できなかったのです。
 たとえば、病原菌に体が蝕まれている場合、食事を整えたり、睡眠をよくとっ
たりして、自分自身のもつ回復能力に頼るだけでは限界があります。体を薬の
コントロールの下、支配下に置かなければ、病気は治癒しません。国家レベル
で見てみましょう。悪い政治によってもたらされる悪は、個人の努力によって
だけでは修復することができません。政治の体制を変えなければ、問題は解決
しません。以上の例から明らかなごとく、パウロは、「罪の法則」から「霊の
法則」へ、という表現を通して、人は自らの支配者をサタンから神に変えなけ
ればならないこと、変えることによって初めて解放がもたらされることを、言っ
ているのです。
 では、その「霊の法則」とは何か? まず、神の支配の下で、神は何をどのよ
うに解放してくださったのか、そしてその解放がどこへ向かっているのか、が
示されることとなります。

3〜4節「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださった
のです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従っ
て歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」

 「霊の法則」は、2節にあるようにキリスト・イエスによってもたらされま
したが、キリスト・イエスは、罪から霊への支配の転換のために何をしてくだ
さったのでしょうか。それは、神を主語にして言えば、「罪を取り除くために
御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断さ
れた」ということでした。ここには、イエス・キリストが十字架にかかって死
なれた、という厳粛な事態の意味が記されています。第一に「受肉」です。神
は御子を人間として生まれさせられました。しかし、罪に関しては、縛られる
ことなく、自由でした。それが、「罪深い肉と同じ姿で」の「同じ姿で」の語
に言い表されています。そして受肉は謙卑のためでした。謙卑はへりくだりの
意味ですが、御子は人類すべての罪を背負って、その罪の罰を受け、十字架に
よって死ぬところまでへりくだられました。この受肉と謙卑によって罪が処断
されました。罪の贖いが完成し、人はすべて、罪の法則から解放されたのです。
律法もそもそもは人が神と平和であるために指し示された生活の指針でした。
が、律法を守ることによっては達成できなかった平和が、キリストの受肉と謙
卑によって達成される道が開かれました。体制が変わるために、「罪の法則」
から「霊の法則」へと、法則の転換にあたって御子の犠牲があったということ
です。
 5節以降、霊の法則が示された後の、生活の指針が示されます。まず第一に、
これからは人には「二つの道」が開かれている、ということです。

5〜8節「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は霊
に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和でありま
す。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従ってい
ないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはず
がありません。」
 今までは、人は、アダムは罪の支配下にありましたから、支配者はサタンの
みでした。肉に従って歩むしかありませんでした。が、キリストの出来事によっ
て、霊に従って歩む道が開かれました。この道は命と平和に通じます。が、サ
タンの王国がすべて滅び去ったわけではありませんので、人はどちらかの道を
選ばねばなりません。さあ、どちらを選ぶか、私たちは問われています。

(続)



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