2013年05月12日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 23回「ローマの信徒への手紙7章14〜25節」
(11/11/20)(その3)
(承前)

21〜25節「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている
という法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、
私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内
にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしは何とみじめな人
間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるで
しょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。こ
のように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に
仕えているのです。」

 パウロはここで「内なる人」ないし「心の法則」というものに着目します。
「心」と訳されている語の原語は「ヌース」です。「ヌース」は通常は理性と
訳されます。日本語で理性と言うと、感性との対比でもって、理詰めで考える
能力、すなわち計算をしたり、論理を組み立てる能力を指す言葉として受け取
られています。しかし、日本語で言う理性と違って、「ヌース」は、魂の世界
を理解する能力をも意味しています。つまり、人に「ヌース」があって初めて、
神の律法が受け止められるのです。そして「ヌース」は、人であればだれでも
が持ち合わせているはずのものなのです。ですから、十戒という形でではなく
とも、神の律法を受け止め、それを実行しようとすることはだれにでもできる
はずです。ということは、罪の支配に気づき、救いを求めることは、だれでも
が体験することなのです。
 自分の力では全く乗り越えることができない壁にぶつかって、人はだれでも
救いを求める叫びをあげるしかありません。しかし、神は、この救いの叫びを
聞いてくださいます。

(この項、完)


第24回「ローマの信徒への手紙8章1〜11節」
(11/11/27)(その1)

2節「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則から
あなたを解放したからです。」

前回、律法によって罪の自分に気づかされたアダムが、それでは、ということ
で、律法を守る生涯を「望んだ」時、と言っても、心に思い描いただけでなく、
実行しようとした時、どのようになったのか、を学びました。少しは実行でき
たのでしょうか。全くそうではありません。少しは実行しているどころか、全
く反対のことをしている自分に気づかされてしまうのです。自分の力ではどう
にもならない、罪の法則を前にして、立ち往生している、というのが、アダム、
そして全人類のありのままの姿でした。
 しかし、この罪と、罪の結果である死の法則から、「キリスト・イエスによっ
て命をもたらす霊の法則」が、「あなた」すなわち、アダムを、そして全人類
を救ってくれた、というところから、今日の話は始まります。
 しかし、罪の法則の下にあって奴隷状態にあった、そして、「死に定められ
たこの体からだれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫ばざるを得なかっ
たアダムを救うことのできる霊の法則とは何でしょうか。まず、パウロが言う
「法則」なるものは何か、と言うところから話を始めてまいりましょう。
 ローマの信徒への手紙では、すでにしばしば「法則」なる語が出てきました
が(3:27、7章)、この「法則」と訳されている語の原語は「ノモス」です。
が、ギリシア語では、律法のことも「ノモス」と言います。パウロは実は、同
じ「ノモス」という語を律法の意味と、「法則」の意味とに使い分けているの
です。
 「ノモス」という語そのものについて見てみましょう。「ノモス」と言う語
の語源は、「割り当てる」と言う意味の動詞でした。「割り当てる」とは、
「あなたはこれをしなさい」「あなたはこれをしなさい」と割り振ることです。
そこから「ノモス」は、「それぞれが割り当てられた仕事」→「それぞれがせ
ねばならないこと」→「法」と意味が広がって行ったのです。そして、ヘブラ
イ語の「トーラー(律法)」をギリシア語に訳すときにこの「ノモス」という語
をあてたため、ギリシア語聖書では、70人訳聖書でも、新約聖書でも、「ノモ
ス」はほとんど専ら、「トーラー(律法)」を意味する語として用いられてきた、
ということです。しかし、パウロだけは、時々、「ノモス」という語を「トー
ラー(律法)」の訳語として用いられる以前の意味で用いることがある、という
ことです。すなわち、「各人に割り当てられたもの」「各人が否が応でもなさ
ねばならないこと」「法則」という意味でです。よって「罪の法則」とは、罪
によって各人が否が応でもなすように仕向けられている事柄、という意味にな
ります。
 パウロのこのような「ノモス」という語の用い方に前例がないわけではあり
ません。アレクサンドリアのフィロ(紀元前25年〜紀元45年)というユダヤ人哲
学者は、「ノモス」という語を「自然法則」の意味で用いています。パウロが
フィロの直接の影響を受けたかどうかは定かではありませんが、パウロは、自
然界が自然法則に縛られて生きているように、人間が罪に縛られている様を、
「罪の法則の虜になっている」と表現したのです。

(続)



(C)2001-2013 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.