2013年05月05日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 23回「ローマの信徒への手紙7章14〜25節」
(11/11/20)(その2)
(承前)

 15節で、「望む」と訳されている語の原語は、「セロー」と言います。欲求
とか意志とか決心の意味で、日本語の「望む」とほぼ同じ意味を持っています。
が、ギリシア語の「セロー」は、日本語の「望む」よりも意味が広く、心に抱
いた欲求なり意志なり決心なりを、「口に出して言う」ないしは「命令する」
ところまで、その意味として含んでいるのです。
 ということは、15節で「望んだ」と言われていることは、「わたし」が心に
抱いたばかりではなく、実行しよう、と努力したところまで含んでいるのです。
心に抱いたものは、明らかに「神の意志」でした。神の意志を実行しようとし
たのです。
 そもそも神は、意志し、実行されるお方です。たとえば、エゼキエル書18:23、
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか。と主なる神は言われる。彼がその道から
立ち帰ることによって、生きることを喜ばれないであろうか」とあります。
 ここで、「喜ぶ」と訳されている語の言語が「セロー」です。神は、意志、
この場合には、「悪人の立ち帰り」を待っておられます。そして、神は、御自
分のご意志を必ず実行されるのです。
 詩編135:6「天において地において、海とすべての深淵において、主は何事を
も御旨のままに行われる。」
 ヨブ記23:13「神がいったん定められたなら、だれも翻すことはできない。神
は望むがままに行われる。」
神の「望み」「ご意志」は、実行が前提されているのです。
 一方、「わたし」は、神の意志である律法を、自分も神のように、神に倣っ
て「望み」ました。決心して実行しようとまでしたのです。ところが、できま
せんでした。できないどころか、「憎んでいること」、神の「望み」とは逆の
ことを行ってしまうのでした。
 この挫折に直面して、普通でしたら、人は、「自分の望み、心の思い、意志
が十分ではなかった。しっかりしていなかったからいけなかったのだ」と考え
るのではないでしょうか。実際、パウロと同時代のユダヤ教の一派、クムラン
の人々も、そう考えました。神の意志を実行しようとして挫折したとき、そう
考えました。
 クムランの資料『宗規要覧』には、「わたしは邪悪な人間に属する」との言
葉が残されています。律法を実行しようとして、できない自分に気がついたの
です。が、クムランの人々は、ここでめげませんでした。自分の「望み」が足
りなかったことを覚えたならば、さらに律法の実行にまい進するのです。
 しかし、「わたし」はここで開き直りました。律法を実行しようとしてもで
きない、ということは、律法という善が「わたし」の中に住んでおらず、罪が
自分の中に住んでいるゆえだ、というのです。まるで、悪霊につかれた人であ
るかのようです。悪霊つきについては、マルコ5:1〜20に詳しく記されています。
悪霊に取りつかれた人は、石で自分を打ちたたいたり、周囲の人の言うことを
聞かなかったり、イエスに反抗したり、散々悪を行いました。が、それは、こ
の人についていた悪霊が行ったことで、この人には責任がないのです。が、悪
霊つきはともかく、罪に関しては、自己責任なのではないでしょうか。
 パウロは、この問いには直接には答えておりません。が、パウロが、「わた
し」記述で前提としているのは、心理学ではなく、「今や」キリストの恵みに
与っている、その立ち位置から見て、律法を実行しようとしてできなかった、
その壁が何であったか、「今」分かったことを述べているのです。その時は、
その壁が何であるのか、分かりませんでした。しかし、今振り返ってみると、
それは、罪の支配に服していたからでした。そして、パウロ自身も含めて、す
べての人が、罪の奴隷となっていた、そのことが今、分かったのです。その奴
隷状態を主観的に表現したものが、「わたしは自分のしていることが分かりま
せん」だったのです。責任を取ろうにも取れなかったのです。キリストに出会っ
て自由にされて、初めて自己責任が取れるようになったのです。
 しかし、救いが以上のようなプロセスをたどるものであるとすると、律法を
与えられたのはイスラエルだけですから、救いも結局はイスラエルに限定され
るのではないか、との疑問が残ります。この問いへの答えを用意したわけでは
ありませんけれども、パウロは、後半部分で、この救いに与るプロセスが、イ
スラエルだけではなく、全人類に当てはまるもりであることを述べることとな
りました。

21〜25節「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている
という法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、
私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内
にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしは何とみじめな人
間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるで
しょうか。…」

(続)



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