2013年04月28日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
22回「ローマの信徒への手紙7章7〜13節」
(11/10/30)(その3)
(承前)
パウロがここで言いたかったことは、「わたし」は本当に律法を与えられて
いなかったし、知らなかったのであるが、それを与えられて、与えられたこと
により罪が表面化し、そして罪の終着駅としての死に至ることとなった、とい
う事実経過です。そうしますと、律法がなかった→与えられた→罪が表面化し
た→死んだ、というプロセスを実際にたどった人物が「わたし」である、とい
うことになります。ここで、やはり、「わたし」はアダムである、という結論
にもう一度到達するのであります。
とは言え、アダム以降の人間は、そのアダムの不始末の結果を引き受けねば
なりません。それゆえ、否が応でも、アダムの体験は、後の人々にとっても
「わたし」の体験とならざるを得ないのです。まさに、「アダムさえいなかっ
たら…」です。
アダムの体験のポイントは、善なる律法がきっかけとなって、悪なる罪が
「始まった」というところにあります。それだけ、罪の支配は深刻なのです。
12〜13節「こういうわけで、律法は善なるものであり、掟も聖であり、正しく、
そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらす
ものとなったのであろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現す
ために、善いものを通して、わたしに死をもたらしたのです。このようにして、
罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」
ここまで来て、7:7〜25の執筆意図が明らかになりました。アダム以降、アダ
ムの時に遡ってもう一度やり直しをすることはできない以上、その時代に、律
法によってきっかけをつくられてしまった「罪の支配」という厳しい現実の中
に、それぞれの「わたし」がいる、ということに目覚めさせるためです。
しかし、救いの道はもうすでに示されています。しかし、さらにしばしの間、
律法によってもたらされた「罪の支配」の現実に触れることとなります。「逃
れの道」もその中で示されることでしょう。
(この項、完)
第23回「ローマの信徒への手紙7章14〜25節」
(11/11/20)(その1)
14〜20節「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、
わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしている
ことが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることを
するからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものと
して認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、も
はやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の
内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善を
なそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分
の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことを
しているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中
に住んでいる罪なのです。」
前回は、律法を知らないアダムのところへ、律法が与えられたらどうなるか、
というテーマで学びました。暗闇の中に光が射し込むがごとくして、そこが埃
だらけであること、アダムが罪にまみれていることがあきらかとなるのです。
今日は、それに引き続き、そのアダムが、「それでは」ということで、いざ律
法を受け止めて歩み始めようとしたらどうなるか、ということがテーマです。
なお、このアダムの運命は、全人類の運命ですから、パウロは前回に引き続き、
「わたし」、一人称単数でもって語りかけます。
受け止めて歩み始めようとして、どうなったでしょうか。14節、律法が「霊
的なもの」、神から出た聖なるものであるのに対して、「わたしが肉の人で罪
に売り渡されている」、罪にまみれているどころではない、罪の奴隷である、
というますます深刻な実態が明らかになっただけだった、というわけです。15
節以下でその結論に至った過程が明らかにされます。15節によれば、律法を受
け止めて実行しようとしていた「わたし」は、「自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをする」という事態に直面した、というのです。「わ
たし」が直面した事態について考えてみましょう。
日本語の辞書で「望み」ないし「望む」を引いてみると、「眺める」という
全く別の意味を除いて、「ねがい」「ねがう」と記されています。これではあ
いまいなままですので、『和英語林集成』で、明治時代以来の用法を調べてみ
ましたら、desire, hope, wishの三つの英語の単語で説明されていました。す
なわち、日本語の「のぞみ」の内容は、欲求、希望、願望の三つに分析される
のです。しかし、欲求にしても、希望にしても、願望にしても、あくまで心の
働きであって、それを実現しようと努力することまでは、日本語の「望む」の
意味には含まれていません。
(続)
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