2013年04月14日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 22回「ローマの信徒への手紙7章7〜13節」
(11/10/30)(その2)
(承前)

7節後半〜11節「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったで
しょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼ
りを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種
類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるの
です。わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし掟が登
場したとき、罪が生き返ってわたしは死にました。そして、命をもたらすはず
の掟が、死に導くものであることがわかりました。罪は掟によって機会を得、
わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」

 ここで出てくる「むさぼるな」という掟は、十戒の第十戒です。本日の旧約
聖書、出エジプト記20:17の「むさぼるな」です。「むさぼるな」は、今でこそ、
十戒の戒めの一つにすぎませんが、パウロ当時のユダヤ教では、律法を代表す
る戒めと考えられていました。ヤコブの手紙1:14〜15は、この考えを前提に述
べられていることが確かです。すなわち、
 「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆かされて、誘惑に陥るのです。
そして欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」
 要するに、「むさぼるな」は律法によって定められた掟を代表するがゆえに、
「律法がむさぼるなと言った時」とは、「律法が公布されたとき」を意味する
のです。その時生きていた「わたし」は、律法公布以前から生きていたことと
なります。
 そして、9節はそのことをよりはっきりと言っています。
「わたしはかつては律法とかかわりなく生きてきました。」
仮に、律法公布を出エジプトの時とすると、それ以前の人間は皆、「わたし」
になりえます。しかし、律法の原型は、エデンの園で、神の戒めとして示され
ていました。そうなると、「わたし」はアダムでしかありえません。本日のテ
キストは、「わたし」の名をもって、アダムの体験を語っている、ということ
になります。
 これで結論が出たようなものですが、それでもこの「わたし」をパウロ自身
である、と考える人はいます。その人にとっては、律法公布は、本当の律法公
布ではなくて、律法の掟がパウロによって自覚され、なおかつ、罪が頭をもた
げたその時を指す、ということになるのです。
 そのように考える、ある神学者はローマの信徒への手紙7:7〜25をローマの
信徒への手紙の一つのクライマックスと考えています。ここには、ユダヤ人が
どうだとか、ギリシア人がどうだといった客観的記述とは違った、パウロの緻
密な自己分析が収められている、というわけです。だとすれば、魅力的な部分
です。
 で、その内容ですが、わたし、パウロはアダムと違って、律法のない時代か
ら生きていたわけではありませんが、律法の「むさぼるな」という掟が迫って
来たとき、それは完全に自分のツボにはまってしまい、罪がパーンと跳ね上が
り、罪が自分を支配するようになった、というわけです。そのツボとは何か、
ということですが、自分の中にすでに罪の要素があり、それが律法の掟によっ
て刺激されて反応する、その出会いがツボだ、というわけです。
 この説明は大変に説得力があるかもしれません。が、パウロがここで言わん
としていることからは、外れてしまっています。その根拠を以下に述べます。
 問題は「機会(11節)」と訳されている語です。この語は、原語では、「ア
ファルメー」と言います。前掲の神学者は、「アファルメー」を「跳躍台」と
いう意味である、と解釈します。「跳躍台」を使うと、自分の力をはるかに超
えて高く飛び上がることができるごとく、罪の自分と律法との出会いが、罪を
パーンと破裂させる、とパウロは言いたいのだ、というわけです。
 ところが、この「アファルメー」という語ですが、サンスクリット(インド・
ヨーロッパ語族の言語の原型)起源の語でして、サンスクリットの時代には「跳
躍台」の意味がありました。が、ギリシア語の時代になると、その意味は失わ
れていきました。パウロの時代のギリシア語には、「跳躍台」という意味の用
例はありません。何らかの物事の「はじまり」「出発点」という意味で用いら
れています。ゆえに、パウロはここで、「罪の破裂」を考えているのではなく、
掟が現れた時、それが、罪が罪として現れ出る出発点となった、という単純な
ことを言おうとしているのです。七十人訳聖書での「アファルメー」の用例、
それはわずか二回しかありませんが、も「出発点」との意味で用いられていま
す。
 もちろん、パウロ自身に「罪と律法が化学反応を示し、それが「跳躍台」と
なって、罪の支配を実感した、という体験があったかもしれません。しかし、
それは、ここでパウロが言おうとしていることとは異なります。

(続く)



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