2012年12月30日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 12回「ローマの信徒への手紙3章27〜31節」
(11/8/21)(その2)
(承前)

 が、誇り、そして誇る者に対して、否定するに止まらず、とりわけ深い洞察
を示しているのが、旧約聖書です。以下、詳しく見てまいりましょう。
 旧約聖書の言語ヘブライ語において、「誇る」を意味する語は、少なくとも
6つあります。6つとも、悪い意味の「誇り」を表します。そのうち二つは、も
ともとは「勝ち誇る」という意味の語と、「ほえる」という意味の語で、悪い
意味での「誇り」に至る人間の攻撃性を表わす語です。ところが、他の四つの語
は、本来は「ほめたたえる」「喜びの声をあげる」「栄光を表わす」「賛美する」
という意味の語で、人間の誇りや高慢とはほど遠い語でした。その語が、人間
の、自らを誇り、高慢になっていく様を表わす語に転じていったのです。典型
的な例を「ハーラル」という語について見ていきましょう。
 「ハーラル」という語は、旧約聖書において頻繁に用いられる語の一つです
が、この語の本来の意味は、「ほめたたえる」です。礼拝用語の一つでした。
この語は、イスラエルの礼拝において、「ハレルヤ、主をほめたたえよ」と、
いう用いられ方をして来ました。主への賛美の呼びかけに用いられたのです。
詩編146編以下、更にヨハネの黙示録19章を見ると、そのことが分かります。
ところが、この「ハーラル」という語が、何と同じ語が、「誇る」「自慢する」
さらには「愚かな、狂った振る舞いをする」といったことを意味する語に転じ
ていくのです。たとえば、詩編73:3、75:5などで「おごる者」と訳されている
語、原語は「ハーラル」なのです。
 「(礼拝において)神をほめたたえる」を意味する語と、「おごる」を意味する語
が、なぜ同じ語なのでしょうか。そうです。礼拝においてほめたたえる対象が、
神からずれてしまった時、特にその対象が「自分」に行き着いたとき、「おご
る」になるのです。以上が、旧約聖書に見られる洞察です。
 たとえば、詩編49:7、「財産を頼みとし、富の力を誇る者よ」とありますが、
ここにも「ハーラル」が用いられています。ほめたたえる対象が、神から財宝
にそれてしまった人の姿が描かれています。更に、箴言20:14では、自慢する人
の姿が描かれていますが、この人も、ほめたたえる対象が、神から自分にそれ
てしまった人です。こうして、「ハーラル」は、神に従う人の謙虚さと、神に
従わない人の高慢さを同時に表わす語になっていったのです。結局、「ハーラ
ル」そのものがよきことなのではなく、神を、神のみを「ハーラル」すること
がよいことなのです。パウロは、「誇る者は主を誇れ」と、コリントの信徒へ
の手紙で繰り返し述べていますが(Tコリント1:31、Uコリント15:17)、これら
は、パウロが、旧約聖書の洞察を受け継いだものと考えられます。
 さて、旧約聖書以降のユダヤ教の時代になりますと、ユダヤ人にとって、神
のみ業は、割礼、律法という形で与えられている、と受け取られるようになっ
て来ました。そこで、ユダヤ人は、(よい意味で)「割礼」や「律法」を誇るこ
ととなります。その辺の経過をシラ書に見てみましょう。
 シラ書においても、「ハーラル」の両面への洞察は受け継がれています。シ
ラ書31:10には、「黄金の誘惑に打ち勝ち、申し分のない生き方をした者はだれ
か。彼こそは大いに誇ってよい」と述べられています。「ハーラル」の対象を
見誤らぬように警告されています。
 また、「ハーラル」の対象が神であるときにのみ、それが「よきこと」とな
ることも自覚されています。9:16には、「正しい人たちと食事を共にし、主を
畏れることを、お前の誇りとせよ」と記されています。
 しかし、シラ書において、「ハーラル」すべき神のみ業は、すべて律法に織
り込まれたものでした。シラ書の時代、学者(賢者)は高く評価される職業でし
た。39:9-10には「彼(賢者)は正しい判断と知識を身につけ、主の奥義を思い巡
らす。彼は学んだ教訓を輝かし、主の契約の律法を誇りとする」と記されてい
ます。賢者の「ハーラル」の対象が律法だったことが評価されていたのです。
結局、「誇る者は律法を誇れ」が、パウロの時代のユダヤ教の勧めでした。そ
して、このことに疑問を抱く者、異議を唱える者はいなかったのです。
 ところが、パウロは「人の誇り(原文は「誇り」)はどこにあるのか。それは
取り除かれました(原文は「排除されました」)」という洞察にまで到達しまし
た。何を誇るか、ではなく、「ハーラル」そのものが必要なくなった、という
のです。なぜでしょうか。それは、パウロが、キリストとの出会いによって、
「主を」そして「律法を」「ハーラル」することのない者も、義とされる、救われ
る、という「信仰の法則」の時代が来たことを、知ったからです。「だれ一人神
のみ前で誇ることのない(Tコリント1:29)」時代が、そして、誇るとすれば、
自分の弱さ(Uコリント12:9)」を、そして十字架(ガラテヤ6:14)を誇る、そう
いう時代が来たのです。
 以下、「信仰の法則」の大筋が説明されることとなります。

(続)



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