2012年12月23日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
11回「ローマの信徒への手紙3章21〜26節」
(11/8/7)(その3)
(続)
ガラテヤの信徒への手紙2:16でパウロは、「人は律法の実行ではなく、ただ
イエス・キリストへの信仰によって義とされる、と知って」と書いています。
パウロとキリストとの出会いは、キリストの十字架が、かつて彼が考えていた
ような偽メシアの刑死ではなく、何と、神が十字架上でのイエスの死をもって、
すべての人の罪の贖いとされる出来事であったこと、それゆえ、人はもはや律
法の行いによってではなく、イエス・キリストを信ずる信仰によって義とされ
る、ということに目を見開かされた体験だったのです。
この人知れず起こった、パウロとキリスト・イエスとの出会いが、神の救い
の歴史における「転回点」=「今や」となりました。それゆえパウロは大胆に、
臆することなく、キリスト・イエスを通して神から示されたこととして、「律法
とは関係なく、神の義が示された、」そしてそれは「イエス・キリストを信じる
ことにより、信じる者すべてに与えられる神の義である」と大胆に宣言できた
のです。
ただしパウロは「律法と預言者とによって立証されて」と注釈をつけました。
先週述べたように、そこには、真面目にファリサイ派として生きたパウロの体
験が反映されています。律法を守ることは、そのことによって結果的に自分の
罪を知るという効果を伴っていたのです。そして、さらに「そこには何の差別
もない」と付け加えています。キリストの出来事の普遍性ゆえに、パウロは後
に、ユダヤ人と異邦人との隔ての中垣が取り去られたことも確信するに至りま
した。
23節以下は、パウロがキリストとの出会いによって到達した信仰理解を、当
時の信仰告白を用いながら、「信仰告白」の形で述べたものです。
23〜26節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただ
キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる
のです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を贖う
供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお
示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示
されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を
義とされるためです。」
大変に長い文章ですが、実は原文は一文でして、主文は23節です。しかし、
パウロが本当に伝えたいこと、キリスト・イエスとの出会いを通して目見開か
されたことは、分詞や、関係代名詞で結ばれた24節、25節にあります。すなわ
ち、キリストこそ、罪の贖いのための犠牲の献げ物そのものであり、そのキリ
ストを神ご自身が献げられたがゆえに、すべての人が「無償で」つまり律法の
行いなどなしに、神に義化される道が開かれた、ということです。パウロは、
キリストとの出会いにおいて知ったことを、このような形で述べているのです。
キリストの十字架の出来事だけでは、救済史的な転換点とはなりませんでし
た。キリストとパウロとの出会いがあって、キリストの十字架は、世界史的な
救いの出来事となったのです。み言葉と、そして「伝える者」とが必要とされ
るのです。
(完)
第12回「ローマの信徒への手紙3章27〜31節」
(11/8/21)(その1)
27節「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法
則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってで
す。」
今までの大きなテーマは、「人はいかにして神の前において義と認められる
か」でした。ところが、そこにもっとも近いと考えられたユダヤ人、とりわけ
敬虔なユダヤ教徒においても、実はそれがなされえないことが明らかにされた
上で、つまり絶望状態の中で、キリストの贖いによる義、言い換えると信仰に
よる義という、思いもかけない道が開かれたところまで、パウロは語りました。
で、本来は、このあとすぐに、「信仰による義」についての説明が続くはず
なのですが、ここでパウロは一旦横道にそれ、「誇り」という問題を取り上げる
こととなります。「誇り」という問題は重要なテーマでありながら、パウロだ
けが気がつき、取り上げたテーマです。少し丁寧に見ていくことと致しましょ
う。とは言え、「誇り」というテーマは、すでに旧約聖書の時代に取り上げら
れています。まず、旧約聖書から話を始めてまいりましょう。
おおよそどの文化圏においても、「誇り」を持つことはよいことである、「誇
り」があるがゆえに、個人として、民族として、そして、人間としてアイデン
ティティーを保つことが出来る、と考えられています。しかし、この誇りが過
ぎると、おごり、高ぶり、高慢となって、他者との間に問題を引き起こすこと
となります。このことに気づいた人は、誇りそのものを警戒の目をもって捉え
ます。日本においては、「誇る」という語は、即「自慢する」の意で、「誇り」
はよい意味では捉えられていません。古代ギリシアにおいても、「誇り」につ
いて否定的で、「カウケーシス(誇り)」という語は、本来悪い意味の語でした。
(続く)
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