2012年12月09日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 10回「ローマの信徒への手紙3章10〜20節」
(11/7/31)(その2)
 (承前)

 禁欲・瞑想型は禅が典型的ですが、キリスト教でも「祈りの人」は多くいらっ
しゃいます。「愛の業」型は、キリスト教に特徴的と言えますが、もちろんど
の宗教にもこのような方はいらっしゃいます。研究型は、日本のプロテスタン
トにその傾向が強くありましたが、どの宗教においても、大切な敬虔の表わし
方です。
 それで、問題はユダヤ教です。ユダヤ教においても、祈りも愛の業も大切に
されますが、何と言っても、研究型が敬虔の中核を占めてきたと言えます。そ
もそも、ユダヤ教では、神の恵みは、選びの民であるユダヤ民族に、「律法を与
える」という形で与えられました。結果、敬虔な人とは、その律法をよく研究し、
正しく実行する人、ということになります。神は、アブラハムの子孫、イスラ
エル民族すべてにその恵みをお与えになられましたから、そもそもは、イスラ
エル民族全体にその敬虔が要求されました。たとえば、詩編149:1を見てみま
しょう。

「ハレルヤ、新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで、賛
美の歌を歌え」

とあります。ヘブライ語で、敬虔は「ハーシード」と言います。「ハーシード」
は、新共同訳では「主の慈しみに生きる人」と、協会訳では「聖徒」と訳され
ています。いずれにせよ、敬虔、すなわち律法を熱心に研究し、実行している
人のことです。イスラエルの民は、皆、「ハーシード」であるはずだから、全
員で礼拝しましょう、というのが、詩編149:1の主旨です。
 しかし、現実には、イスラエルの民といえども、皆が皆、「ハーシード」に
して、律法を熱心に研究し、実行しているわけではありません。詩編12:2でも、
「主の恵みに生きる人」すなわち「ハーシード」が登場しますが、詩編12:2で
は、そういう人が少ないことが嘆かれています。徐々に「ハーシード」は少数
精鋭主義に向かっていくのです。
 こうして、さらに後の時代になると、「ハーシード」すなわち「律法に熱心な
人々」が明確なグループを形成し、歴史の正面に登場してくるようになります。
「ハシダイ」の登場です。「ハシダイ」は、マカベア一2:4〜、7:13〜、マカベ
ア二14:6〜などに登場しますが、律法に熱心で、パレスチナに住み、シリアの
圧政に抵抗し、ユダヤ内部のヘレニズム化に抵抗して、国粋主義の立場を取り、
神への忠誠を尽くそうとしたグループでした。そして、その「ハシダイ」の流
れを汲んだグループがファリサイ派なのです。
 パウロは、自らがかつてファリサイ派に属していましたから、「ハシダイ」
の歴史的、社会的貢献については高く評価していたことでしょう。しかし、復
活のイエスに出会ったその光に照らしてみたとき、「ハシダイ」そしてファリ
サイ派の過信こそが、神の領域を侵す、最大の罪、冒涜の罪であることに気づ
いたのです。すなわち「自分たちこそ、律法を最もよく研究し、もっとも正し
く実行している。律法主義の危機は、自分たちの力で乗り越えられる」という
過信です。
 そこでパウロは、「律法を守ってでは、いかにしても罪の自覚しか生まれて
こない」という言葉をもって、ユダヤ教とはっきり訣別し、キリストの福音に
従ったのであります。
 私たちにとって、ユダヤ教は、遠い世界の出来事のように思えるかもしれま
せん。しかし、ユダヤ教の抱えていた問題は決して他人事ではありません。敬
虔であったとしても、自らの業を誇りとして神に向かう時、そこには、ファリ
サイ派と同じ問題、罪が待ち受けています。改めて、キリストの恵みのみに生
きるわたしたちの立場を確認してまいりましょう。

(完)


第11回「ローマの信徒への手紙3章21〜26節」
(11/8/7)(その1)

21〜22節「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立
証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じること
により、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありま
せん。」

 1:18以来、神の怒りの下にある人間の実態が描かれてきました。パウロは人
間を二種類に分けますが、その中、大部分を占めるのは異邦人です。異邦人の
中にも、自分自身の被造物性(限界性)を察知して、畏れを抱きつつ歩む者がい
ることはいます。しかし大部分は、神など知らぬのをよいことに、自分勝手、
したい放題にしているので、神の怒りを免れることなど、ありえない状態です。
人間の残り半分、数から言えばごく少数は、真面目なユダヤ人です。ユダヤ人
の祖先、イスラエル民族は、神に選ばれ、そのしるしは割礼という形で継承さ
れ、神の怒りを免れる方法として律法を与えられていますから、ユダヤ人は、
神の怒りを免れるところまでもう一歩でした。しかし、その経過については、
前々回、前回ふれたとおり、ユダヤ人も結局神の怒りを免れることができず、
パウロは、神の救いについて述べているのですが、「正しい者(神の怒りを免れ
る者)は一人もいない」という結論に到達したのです。そして最後に、前回の説
教で詳しく触れたとおりですが、「それでも律法を守っていこう」というファ
リサイ派の最後のあがきに触れ、人類の絶望的状況の叙述を締めくくったので
す。

(続)



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