2012年12月02日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
10回「ローマの信徒への手紙3章10〜20節」
(11/7/31)(その1)
9節をもう一度読みます。
9節「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全く
ありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある
のです。」
くりかえし申し上げますが、神の怒りをいかにして免れるか、が大きなテー
マです。その点、神に選ばれ、契約の民とされ、割礼というしるしを受け、さ
らに神に喜ばれるための方法として、律法を与えられたイスラエル民族、のち
のユダヤ人は極めて有利な立場にあるはずでした。しかし、そのユダヤ人は、
しるしに過ぎない割礼を頼みとし、律法に関しては言行不一致であり、有罪で
す。先週は、それにもかかわらず、神は真実で、誠実で、永遠のお方でいらっ
しゃるから、「イスラエルを救う」との約束を違えることはなく、ユダヤ人の
思いもよらない方法で約束の成就をはかられたことを学びました。が、ユダヤ
人はこの神の業にもケチをつけるということで、有罪です。「特別に選ばれた」
ユダヤ人にしてかくのごとき状態ですから、ユダヤ人も、ギリシア人(異邦人)
も、皆罪の下にある、神の怒りを免れない、ということになるのです。
このかなり厳しい状況、実は、それは既に旧約聖書の時代から露呈していまし
た。
10〜18節「次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もい
ない。悟る者もなく、神を捜し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に
立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののど
は開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口
は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すに速く、その道には破壊と悲惨がある。
彼らは平和の道を知らない。彼らの目には、神への畏れがない。』」
10〜18節は、詩編14編の要約、詩編13:1〜3、詩編5:10、詩編139:4、詩編9:28、
イザヤ書59:7〜8、詩編35:2の要約を結びあわせて作られた詩文です。あちら
こちらから引用ないし編集されながら、一貫した、洗練された詩として構成さ
れているということは、この詩が、すでにユダヤ教の時代に現在の形に編集さ
れ、受け継がれていたということを表わしています。
『ソロモンの知恵』15:1〜2において、「たとえわれわれが罪を犯しても、
われわれはあなたのものです。というのはわれわれはあなたのみ力を知ってい
るからです。しかしわれわれは罪を犯さないでしょう。なぜなら、われわれは
自分たちがあなたのものとみなされていることを知っているからです。」と記
されている通り、ユダヤ教のなかには、ユダヤ人が結局は無罪になるとの考え
があったことも確かです。しかし、同じユダヤ教でも、『感謝の詩編』W29〜
30などには、「何人もあなたの判決によれば正しくなく、あなたの裁きに罪な
き者はいない」と記されており、万人の罪責性を自覚している立場もあったの
です。その自覚がこの詩となっています。しかし、問題はその先です。だから
と言って、ユダヤ教においては、律法を守って義とされようとする生き方その
ものを見直す方向へは決して行かないのです。『第四エズラ書』3:20などにあ
るごとく、それでも律法をより厳しく守る、という方向に向かうのです。パウ
ロは最後に、この律法遵守主義に触れます。
19〜20節「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、
律法の下にいる人に向けられています。それはすべての人の口がふさがれて、
全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行す
ることによっては、だれ一人神の前では義とされないからです。律法によって
は罪の自覚しか生じないのです。」
パウロは19節前半において、律法主義の行き詰まりをのりこえようとする律
法遵守主義の考え方に触れています。この考え方によれば、律法の言うところ
は、「すべてのユダヤ人のため」ではありません。そうではなくて、「律法の
下にいる者」すなわち、本当に律法に忠誠を誓った者だけのためのものである、
というのです。すなわち、少数精鋭主義によって、律法主義の危機をのりきろ
う、というのです。以下、ユダヤ教の少数精鋭主義の流れに触れてまいります。
そのためには、その前に、ユダヤ教における敬虔(信心深いこと)について触れ
ておかねばなりません。
そもそも、宗教なるものは、神なり、仏なり、自然が人間に恵みを与えると
ころから出発するものですから、実は客観的なものです。しかし、もう一方で
は、その恵みを恵みとして受け止める人間がいて、宗教は成立するのです。そ
の意味では、宗教は主観的です。礼拝は、この客観と主観とが出会うところに
成立します。神の恵みが与えられ、それが感謝をもって受け止められて、礼拝
が成り立つのです。さらに、礼拝においてだけでなく、この神の恵みを受け止
める心は、一人一人の心に内面化されます。それが敬虔です。
この敬虔の表われ方は、宗教によっても、個人によっても、多様性がありま
す。宗教心理学では、敬虔の表われ方を、禁欲・瞑想型、愛の業型、研究型な
どに分けたりします。
(続く)
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