2012年11月25日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 9回「ローマの信徒への手紙3章1〜9節」
(11/7/24)(その2)
(承前)

 が、結局行き着くところ、本当に真実で、誠実で、しかもそれが永続するお
方、それは神しかおられない、ということで、アーマンは、神の真実さ、誠実
さ、永続性を表わす言葉として、さらには、その神を信用し、信頼し、信仰す
る行為を指す言葉として、用いられてきたのです。ちなみに、このアーマンを
副詞化した語がアーメンです。「真実に」と訳されますが、「神にあって、真
実、誠実、永続的に」というのが、正確な訳です。
 というわけで、パウロは3節で、イスラエルの子孫たるユダヤ人の不誠実と、
神の誠実とを対比させて述べているのですが、ここで彼が「アーマン」という
語を意識して述べていることは間違いありません。が、ギリシア語では、ヘブ
ライ語のアーマンにぴったりと当てはまる語がないものですから、3節でパウロ
は、ギリシア語で、「信頼する」ないしは「信頼できる(誠実である)」を意
味する「ピスティス」という語を用いて、神が誠実で信頼に値するのに対し、
人間(ユダヤ人)が信頼に値しないことを述べ、そして4節では、ギリシア語の
「アレートス(真実である)」という語を用いて、神が真実であって信用するに
値すること、人間(ユダヤ人)が不真実(偽り者)であって信用するに値しないこ
とを述べているのです。パウロは、次に神には永続性があって、信仰するに値
するのに対し、人間はそうではない、と言いたいところなのですが、それは、
「言わずもがな」ですので、読者には、そこまで読み込んで納得することが求
められています。
 こうして、例の契約に関しても、人間(ユダヤ人)は不真実で、不誠実で、神
の怒りを招く事態に堕落してしまいましたが、神は、イスラエルを祝福すると
いう約束を決して違えることはない、という結論をパウロは導き出すのです。
しかし、この結論は言挙げされてはおりませんので、読者が悟らねばなりませ
ん。
 次に、神は一体どうやってその約束の成就という困難を乗り越えられるか、
という問題に入っていくこととなります。この大問題についても、パウロは、
読者が当然わかっていることとして触れません。ゆえに、現代の読者たる私た
ちは、知恵を絞ってその行間を埋めねばなりません。
 その埋める作業を進めてみると、まず第一に、神は既に31:31-34に触れられ
ているように、契約違反をしたイスラエルの民に、「彼らの悪をゆるし(34節)、
彼らをわたしの民とする(33節)」、すなわち新たな契約を結ぶと約束されまし
た。そして、その神の言葉は、驚くほどすぐに、また、ユダヤ人が思いもかけ
ない仕方で実現することとなりました。すなわち、イエスが最後の晩餐で明ら
かにされたごとく、イエスの血をもって、ユダヤ人のみならず、全人類を救う
という契約を教会と結ばれた、ということです。この約束は、十字架において
成就しました。ですから、この契約に与りさえすれば、ユダヤ人はもちろんの
こと、すべての人が救いに与ることができるのです。
 これだけの内容深いことを、パウロは言外の言として述べた後、その救いに
与った後の結論だけを、一行目は詩編116:11、二行目は詩編51:6bの引用によっ
て締めくくります。すなわち、あなたは、ユダヤ人に代表される人間ですが、
言葉、罪ある言葉ですが、それを述べるとき正しいとされ、裁きを受けるとき、
当然有罪であるはずなのに、無罪とされるのです。ここに神のアーマンの行き
つく先があるのです。
 ところが、ここまで神が真実と、誠実と、永続性をもって、新しい契約をご
提示くださったにもかかわらず、この契約に対してもユダヤ人はけちをつけ、
受け入れようとせず、罪に罪を重ねることとなりました。

5〜9節「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに
対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する
神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうし
て神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによっ
て神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わ
たしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうで
あれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。
わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが
罰を受けるのは当然です。」

5〜8節がパウロに向けられた中傷ですが、ユダヤ人たちは、人間の不義を神が
義とするとすると、それは神の怒りと矛盾する、とか、あるいは、罪が赦され
るのであれば、もはや罪は罪でなく、神の真実がいっそう明らかにされるため
に悪が推奨されることになるなどと言って、この新しい契約にけちをつけ、受
け入れようとしなかったのです。
 こうして、せっかく特典の中に置かれたユダヤ人ですが、罪に罪を重ね、9節
にあるごとく罪人一般の中に入れられることとなってしまいました。
 私たちは、残念ながら、特典を与えられていない民です。しかし、逆に素直
に神がイエスを通して与えられた新しい契約に近づくことができるのではない
でしょうか。

(完)



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