2012年11月18日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
9回「ローマの信徒への手紙3章1〜9節」
(11/7/24)(その1)
1〜2節「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆ
る面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」
大きなテーマとしては、神の怒りをどうしたら免れることができるか、とい
うことです。そして、パウロは、割礼によって神の契約の民とされ、律法を守
ることによって神の怒りを免れる道を示されたユダヤ人が、実は全く適わない
ことを述べてきました。
しかし、それでは、世界で最初に契約の民とされ、律法を与えられたイスラ
エルの子孫であるユダヤ人のメリットは何もなくなってしまったのか、という
ところからパウロは議論を始めます。
それはあるのです。たとえ今はどうであれ、神の祝福の言葉を世界で最初に
委ねられたことです。神の言葉はまず、アブラハムに対する約束として示され
ました。その約束は、創世記12章,15章,17章と三度にわたって示されています。
そして、それは、いずれも、子孫の繁栄と、土地の取得とを約束するものでし
た。これは一見、神の怒りを免れることとは関係がないように見えるかもしれ
ません。が、イスラエルにとって、土地と子孫を与えられることは神の祝福の
しるしでしたから、それが与えられるということは、神がイスラエルの民を神
に喜ばれる民、神の怒りを免れるべき民として認定された、ということを意味
するのです。そして、神は、この契約のしるしとして、割礼を定め、そして、
後に、神の怒りを免れる道として、律法をお定めになられた、ということなの
です。
しかし、イスラエルはこの律法を守ることができませんでした。それゆえ、
イスラエルは、神の怒りを免れることができなくなってしまいました。
が、となると、神の側の、イスラエルを祝福の民として認定した、というそ
の約束の方はどうなるのか、という問題が残ります。この神の約束は、イスラ
エルの側の不始末のため、未完のまま終了してしまったのでしょうか。一体、
神の約束はどうなっているのか、という次の問いが投げかけられます。
3〜5節「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者がいたにせ
よ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるというのですか。決してそう
ではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきで
す。
『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得
られる』と書いてあるとおりです。」
この難問に答えるために、パウロは「神の誠実と真実」というテーマをとり
あげます。そこで本日は、神の誠実と真実について詳しく見ていくことと致し
ましょう。問題は、わたしたちが神を信用できるか、信頼できるか、そして信
仰できるか、という問題に関係します。
さて、私たちの人間関係においても、人を「信じる」ときには、「信用する」
「信頼する」「信仰する」の三段階があり、なおかつ、この三つは連続してい
ます。人間関係は、ある人を「信用する」ところから始まり、信用が深まって
いくに従って「信頼」になり、信頼が深まって「信仰」になるのです。ところ
が、旧約聖書ヘブライ語では、「信用する」と「信頼する」と「信仰する」の
三つを一緒くたにして、「アーマン」という語で表現しています。それゆえ、
翻訳する時、この三つの中どれを意味するか、を嗅ぎ分けて、訳し分けると、
うまく意味を伝えることができます。たとえば、エレミヤ書12:6、「彼らを信
じるな」とありますが、原語は「アーマン」で、ここでは「信用する」の意味
です。ですから、ここは「彼らを信用するな」と訳すとよい訳でなります。次
にヨブ記4:18、「神はその僕たちを信頼せず」とありますが、ここも原語は
「アーマン」です。が、ここは「信頼する」という意味ですから、「信頼せず」
という訳は適訳です。さらに創世記15:6、「アブラムは、神を信じた」とあり
ますが、ここも「アーマン」です。そして「信仰する」の意味ですから、「ア
ブラムは、神を信仰した」と訳すと、意味が一層明確になります。
ところで、ここで視点を変えると、私たちは、人の言っていること、行って
いることが真実である、つまり嘘がないから相手を信用するのであり、それに
加えて、相手が誠実であるから信頼するのであり、さらに、その真実と誠実が
永続するから信仰する、と言えるのではないでしょうか。そして、旧約聖書ヘ
ブライ語の「アーマン」という語は大変に便利な語でして、「信ずる」という
意味を超えて、相手が「真実」であり、「誠実」であり、しかも「永続性」の
あることをすべて表現してしまうのです。「真実」についての例としてイザヤ
書49:7を挙げましょう。「真実にいますイスラエルの聖なる神」と訳されてい
ますが、原語は「アーマン」で、「真実である」という意味で使われています。
「誠実である」という意味での「アーマン」は申命記7:9など、「永続する(堅
固である)」という意味での「アーマン」はイザヤ書33:16などにあります。
(続)
(C)2001-2012 MIYAKE, Nobuyuki &
Motosumiyoshi Church All rights reserved.