2012年11月11日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
8回「ローマの信徒への手紙2章25〜29節」
(11/7/17)(その2)
(承前)
そして、その指導の際、預言者たちは、割礼というものは、そもそも、神が
契約のしるしとして、アブラハムとその子孫とになすように命じたことである、
という伝承を援用しました。その伝承が本日の旧約書、創世記17章1〜15です。
アブラハムが95歳になったとき、神はアブラハムに、子孫の繁栄と、国土の確
保を約束しました。その約束のしるしの、人間の側でのしるしが割礼です。イ
スラエルの男子はすべて割礼を受けねばなりません。割礼は、イスラエル以外
の西セム族にもある慣習です。実際に、捕囚前に、契約のしるしの意味合いで
割礼がどの程度まで普及していたのか、不明ですが、捕囚の時、この意味合い
が思い起こされ、民族のアイデンティティー確立に役立ったことは確かです。
その後のユダヤ教の時代は、割礼が神の契約のしるしとして確認される時代
でした。が、意外に普及しなかったようです。一つには、この儀式が何とも野
蛮な儀式と見られたこと、ヘレニズム文化の中では相当の抵抗がありました。
特に、ギリシア、ローマ人は、割礼を、野蛮だ、邪悪だと見ていたようです。
もう一方では、ヘレニズム文化をすばらしいと思っているユダヤ人の間では、
割礼を恥ずかしいことと思い、その割礼の痕跡を消す者まで現れた、というこ
とです(マカベア一1:15)。割礼は、限定的に捉えられ、フィロは、割礼には衛
生上の意味があり、祭司になる人には有効だ、などと言い訳しています。
そういえば、福音書、少なくともマルコによる福音書においては、割礼につ
いては論じられていません。イエスの時代、割礼は、あるにはあったが、強制
されるものではなかったことが窺われます。
ところが、この割礼が、第二神殿の崩壊以後、ユダヤ人の義務と高慢のしる
しとして定着していくこととなりました。まず義務ですが、ユダヤ人存亡の危
機に、ファリサイ派ラビの指導の下に、割礼は、ユダヤ人の民族統合のシンボ
ルとして、とにもかくにも、ユダヤ人の男児全員に義務付けられ、受けさせら
れることとなりました。
その見返りに、割礼の効能がやたら宣伝されることとなりました。割礼は、
受ける時には大変にしんどいものです。が、受けてしまえば、継続的努力を必
要とする類のものではありません。にもかかわらず、それを受けている、とい
う徳のゆえに、この世において恩恵をいただくばかりではありません。割礼を
受けただけで、来るべき世においても、贖われて、喜びに与ることができる、
とまで言われるようになりました。ついに、割礼を受けるだけで、終末時の裁
きを免れ、義と認められる、とまで考えられるようになってしまったのです。
これは明らかに高慢です。ユダヤ教の中からも批判が出てきます。既に預言
者エレミヤがエレミヤ書9:5で「心に割礼を受けよ」と言っているごとく、割礼
を受けた者は、心で受け止めて、行動で証しをするように、というわけです。
すなわち、律法を守った生活をするように、というのです。パウロは、このエ
レミヤの批判を受け継ぎ、割礼を受けただけで律法も守っていないならば、主
の怒りを免れることなど到底できないでしょう、と切り捨てたわけです。
しかし、それでは、割礼を受け、その上で律法を守ったら神の怒りを免れる
ことができるのでしょうか。パウロによれば、答えはノーなのです。
26節「だから、割礼を受けていないで、律法の要求を実行すれば、割礼を受け
ていなくても、受けたものとみなされるのではないですか。」
何と、今や「割礼を受けていないで、律法の要求を全うする者が出現する時
代になってしまったのです。異邦人で、律法を知らずして律法を全うする人で
す。そんな人がいるのでしょうか。実は、教会を通してキリストの贖いの恵み
を受け取ることによって、それをなしうる人が出現したのです。
今や、この時代になったからには、割礼は元の鞘に納まる、すなわち、民族
の慣習に戻るべきなのではないでしょうか。なのに、割礼にこだわるとしたら…。
27〜29節「そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁
くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っ
ているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施され
た外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人
であり、文字ではなくW霊Wによって施された割礼こそ割礼なのです。その誉
れは人からではなく、神から来るのです。」
割礼にこだわった人は、もはや慣習となった割礼を偶像化することとなり、
自らに裁きを招きます。時代は、W霊Wによって心に割礼を受けた「真のユダ
ヤ人」の時代となりました。バプテスマを受けたクリスチャンが主役なのです。
わたしたちも、ローマの教会とともに、このことを感謝をもって受け止め、古
いものから解き放たれて、歩んで行きましょう。
(完)
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