2012年10月21日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 六回「ローマの信徒への手紙2章12〜16節」
(11/7/3)(その3)
(承前)

 パウロによれば、良心は神の前で、もう一人の自分を「告発」するばかりで
はありません。弁明もするのです(15節)。これはどういうことでしょうか。
 前回も触れたことですが、このパウロのメッセージは、キリストの出来事の
後に書かれています。キリスト以前においては、神は遠いところにおはしまし
た。そのみ心、そして神の怒りは、律法や良心を通して、間接的にしか窺うこ
とができませんでした。しかし、今や、神がキリストとして直接この世に来ら
れました。お姿をお顕しになられたのです。ということは、恵みが直接にはっ
きりと示された、と同時に、裁きも直接に下された、ということなのです。良
心は一転、もう一人の自分を告発するどころではありません。神の裁きの前で、
申し開きをせねばならなくなるのです。が、この自己吟味作業を通して、最終
的には、神の怒りの裁きを免れる道への導きを、信仰の義への道を、良心は手
助けすることとなるのです。
 私たち、異邦人は、律法ではなく、良心の世界に生まれ育った者と言えるで
しょう。良心を研ぎ澄ましていくことが、まず第一に、私たちが神に近づく道
なのではないでしょうか。その上で、キリストの恵みを、正しく自己吟味しな
がら受け止めていくことが期待されているのではないでしょうか。

(完)


第七回「ローマの信徒への手紙2章17〜24節」
(11/7/10)(その1)

17節「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、そ
の御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」

 前々回、前回と、神の怒りの下で、いかにしてその怒りを免れることができ
るか、をデーマとして学んできました。クリスチャンはすでに十字架の恵みに
与っているのですが、クリスチャンでなくとも、律法を持つ者は律法を守るこ
とによって、持たない者は、良心に従って行動することによって、逃れの道へ
導かれていることを学びました。
 しかし、現実に、人は神の怒りを免れる逃れの道を見出しているでしょうか。
どうも怪しいのではないでしょうか? 今回は、そこでまず第一に、律法を持つ
民として、ユダヤ人が俎上にのせられます。パウロはここで、ユダヤ人を「あ
なた」と呼びかけます。「あなた」は、手紙のあて先である、ローマの教会の
クリスチャンではありません。パウロは「かつての仲間」との意味合いで、ユ
ダヤ人を「あなた」と呼びます。しかし、半ば親しげに、そして半ばいやらし
く、執拗な攻撃を加えるのです。しかし、一口に「ユダヤ人」と言っても、パ
ウロはどの人々を指してそう言っているのでしょうか。ユダヤ人全体を指すの
か、特定のユダヤ人を指すのか、特定のユダヤ人とすると、いつの、いかなる
立場のユダヤ人なのか、それらが明らかにされねばなりません。そして、パウ
ロの言う「ユダヤ人」なるものが特定できたならば、今度は、そのユダヤ人の
いかなる考え、行動をパウロが非難しているのかが明らかにされねばなりませ
ん。今日は、その順序で話を進めていくことと致しましょう。
 まず第一に、パウロの言うユダヤ人が何者であるか、ということですが、話
はアブラハムにまで遡ります。
 そもそも、神が、アブラハムの子孫として、また出エジプトの民として、選
びの対象として契約を結び、律法を付与したのは、イスラエルの民、イスラエ
ル人でした。そのイスラエルの民は12の部族からなっており、ユダヤ人とは、
その一つであるユダ族の人々の名称にしか過ぎませんでした。しかし、その後
の歴史の流れの中で、ユダ族の人々、すなわちユダヤ人だけが、イスラエルに
与えられた恩恵を受け継ぐ民となっていきます。カナン定着後、イスラエルは
統一王国を建設しますが、この王国は、紀元前928年に南北に分裂してしまい
ました。しかも、12部族のうち、11部族から成る北王国は、紀元前721年、アッ
シリアの手によって滅ぼされ、歴史上から姿を消してしまったのです。南ユダ
王国のユダ族、すなわちユダヤ人と、ベニヤミン族の一部とだけが、イスラエ
ルに与えられた恵みをかろうじて受け継ぎました。そのユダ王国も紀元前587年、
バビロニアの手によって崩壊し、イスラエルそのものが歴史上から消え去るか、
と思われたのですが、捕囚から帰還した民が、一部族としてではなく、民族と
してのユダヤ人を形成し、ユダヤ教を立ち上げて、イスラエルの恵みと、そし
て使命とを受け継ぐこととなるのです。ゆえに、捕囚期以後、ユダヤ人とは、
民族名であると同時に、ユダヤ教徒の集団を指す語となりました。パウロの時
代においても、ユダヤ人とは、民族名であるばかりでなく、「律法に頼り、神
を誇りとし、その御心を知り、律法に教えられて何をなすべきか、をわきまえ
ている」つまり、自覚的にユダヤ教徒として、イスラエルに与えられた使命に
生きる、すなわち律法に生きる民のことを指す言葉だったのです。

(続)


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