2012年10月14日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 六回「ローマの信徒への手紙2章12〜16節」
(11/7/3)(その2)
(承前)

 キリストの福音に全くふれたことのない人は、そのことのゆえに、滅びに定
められることになってしまうのでしょうか。「キリスト教徒以外は結局は滅び
る」と言う人もいるかも知れませんが、パウロは違います。神のみ心をそのよ
うには受け取っておりません。ユダヤ人には律法が、ユダヤ人以外の人におい
ては「良心」が、神の怒りから逃れる道を示す、とパウロは言うのです。今日
は、この律法と、良心とについて学んでいきましよう。まず律法です。
 律法については、ここでは、神の怒りを免れ、逃れの道を指し示すものとし
てだけ述べられています。そもそも律法は、神がイスラエルと契約を結ばれた
際、神がイスラエルに恩恵を与える見返りとして、イスラエルの民が、神に
「守る」と約束した戒めです。ということは、神の律法を文字通りに守れば、
当然神の怒りから免れる、逃れの道に通じるはずでした。ところが、イスラエ
ルの中には、律法を聞くには聞くが実行しない人が多かったのです。そこで、
ユダヤ教においても、神の怒りを免れるためには、「聞くだけでなく、行うこ
とが大切である」ということが言われてきていました。パウロは、そのユダヤ
教の教えを受け止め、ユダヤ人には「律法を実行する」という道が開かれてい
ることを確認するのです。
 しかし、問題は異邦人です。神を知らない異邦人であっても、自らの被造物
性に気づけば、神を畏れる思いにまで至るでしょう、ということは、既に
1:18-32で、パウロが言っておりました。しかし、神を畏れてはいたとしても、
律法を持たない異邦人が、どのようにして神の怒りを免れる道を見出すことが
できるのでしょうか。「それは無理なのではないか」という大方の予想に反し、
パウロは「良心があるから大丈夫」と言います。しかし、良心とは何で、なぜ
良心があると大丈夫なのでしょうか。良心について、とりわけパウロの言う良
心について考察を深めて参りましょう。
 良心と訳されている語、原語は「スュネイデーシス」です。「スュネイドス」
とか「スュネシス」と表記されることもあります。が、聖書では大変馴染みの
薄い語です。ヘブライ語の聖書では、そもそも良心に当たる語がありません。
七十人訳聖書では、ヘブライ語の原典を無理して訳したかな、という感じで4回
出てくるだけです。要するに、旧約聖書においては、良心なるものは知られて
いなかったのです。
 新約聖書でも、福音書ではヨハネ8:9を除いて一度も出てきません。福音書以
外では、使徒言行録5:2を除いて、32の用例すべてがパウロ以降のものです。パ
ウロはこの語を15回用いており、この語は、そして「良心」という考え方は、
パウロがギリシア世界から聖書の世界に導入したものであることが分かるので
す。良心とはそもそも何で、パウロはそれをどういう意味で用いているのでしょ
うか。
 古代ギリシアでは、ざっくばらんに言ってしまいますと、良心とは、「自分
の中にいるもう一人の自分」のことでした。同じ事象を、自分の中で、二人の
自分が、「こうだ、ああだ」と、違う見方をしているのです。病的な世界のよ
うに思われるかもしれませんが、そうではありません。だれにでもあることで
す。フロイトの精神分析において言われる「自我」と「超自我」との間の葛藤
も、このことを言っているのかも知れません。ギリシア人はそれほど複雑な理
論は持っていませんでしたが、自分の中で、「好き勝手なことをしたい自分」
と「それに歯止めをかけようとする自分」とがあることに気づいてきました。
この「歯止めをかけようとする自分」が良心なのです。
 以上のような人間観を受け止めて、ユダヤ教においても、良心と信仰との関
係を考える人がいました。シラ書(旧約続編)14:2に
 「良心にやましいことのない人、希望を失うことのない人は幸いだ」と記さ
れています。
 明らかに、ここで言う「良心」とは、自分のしていることが正しいかどうか
を判断する、もう一人の自分です。その自分を納得させないと、幸せにはなれ
ません。そして、シラ書の著者は、これも明らかに、その正しさは「神の前に
正しいかどうか」であると考えています。
 シラ書の考え方を発展させ、ユダヤ教で「良心論の神学」を確立したのが
フィロでした。フィロは、道徳的判断をするという良心の働きをさらに深く考
察し、良心は「真相を暴く」働きをする、と考えました。要するに、「神の前
で罪を犯している自分」を良心が暴くのです。ここで、良心は神の意思と結合
することとなり、神の怒り、裁きを予知する働きを担うこととなりました。
 パウロが、直接にフィロを知っていて、フィロの影響を受けたのかどうか、
それは不明です。しかし、パウロが「フィロの考え方」を受け継いでいること
は確かです。パウロによれば、この良心は異邦人(ギリシア人)も自覚的にもっ
ているものであるからして、ユダヤ人が律法においてそうであるように、神の
怒りと裁きを察知し、どうしたら神の裁きを免れることができるか、その道を
指し示すはずだ、というわけです。しかし、パウロの良心論は、ただ単純に
フィロの良心論を受け継いだだけのものではありませんでした。

(続)


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