2012年10月07日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 五回「ローマの信徒への手紙2章1〜11節」
(11/6/26)(その3)
(承前)

 バプテスマのヨハネは、自分たちはアブラハムの子孫だから大丈夫、と慢心
しているユダヤ人に、神の怒りを免れられるか、本当に神の前に正しいと言え
るのか、ということをもう一度問いました。そして、多くのユダヤ人がこのバ
プテスマのヨハネの問いかけに応えて、悔い改めのバプテスマを受けました。
 パウロの言葉も、3節ではこのバプテスマのヨハネの説教の延長線上にあり
ます。が、パウロの場合は、バプテスマのヨハネと違って、神の怒りの対象と
なるのは、「アブラハムの子孫としての慢心」ではなく、異邦人を裁いて、し
かも実は異邦人と同じことをしているユダヤ人の実態でした。ここで「あなた」
と呼ばれているのは、ローマの教会の信徒ではありません。パウロが同胞へ
切々と呼びかける、その呼びかけの表現です。同胞でもあるユダヤ人は、この
パウロの呼びかけに応えて悔い改めたのでしょうか。
 しかし、神がユダヤ人に対して怒りを示されるその理由は、バフテスマのヨ
ハネの説教の延長に止まることはありませんでした。さらに厳しいものでした。
それは、ユダヤ人による福音拒否でした。
 実は、ここが本日のテキスト解釈のツボなのですが、私たちはこのローマの
信徒への手紙が、キリストの出来事、福音の啓示の後に書かれている、という
ことを忘れてはならないのです。
 神はバプテスマのヨハネを用いてのユダヤ人への警告に止まらず、さらに大
きなみ業をなさいました。イエスによる神の国の宣教の開始、十字架と復活に
おける神の国の完成、そして神の国の教会の設立については既に学んだことで
すが、神はこの一連の出来事を通して、新たな、神の怒りを逃れる道、律法に
よるのではない、福音信仰による救いの道、すべての人に開かれた完全な救い
の道を用意してくださったのです。
 ローマの教会の信徒のように、福音を信仰をもって受け止めればいいのです。
しかし、福音を拒否する者はどうなるのでしょうか。福音が決定的な救いであ
る分、それだけ逆に、神の怒りは決定的となり、決定的な裁きが下されること
となります。そして、救いが普遍的であった分、裁きも普遍的です。裁きにお
いても、ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。おのおのその行いによっ
てのみ裁かれる。ここで言う行いは、明らかに福音を信ずる信仰のことです。
人を分け隔てされない神ですが、人の側で、福音を受け止めるかどうかによっ
て、進む道が分かれてしまうのです。
 7節以下には、その裁きの結果が示されています。

7-11節「すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者に
は、永遠の命をお与えになり、反抗心に駆られ、真理ではなく不義に従う者に
は、怒りと憤りとをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はも
とより、ギリシア人にも栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔て
なさいません。」

 神の裁きにおいては、神の怒りと憤りの下、苦しみと悩みとに巻き込まれる
こととなります。しかし、これは神が私たちに、そうあってほしい、と願って
おられる道ではありません。私たちは、福音の喜びを受け止めることができま
すように…。

(完)


第六回「ローマの信徒への手紙2章12〜16節」
(11/7/3)(その1)

12-15節「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なしに滅び、ま
た、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞
く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を
持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄
がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししてお
り、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。」

 前回は、神の怒りについて学びました。神の怒り、と言っても、本来は裁き
と結びついたものではありませんでした。本来は、叱咤激励が目的です。ゆえ
に、神の怒りは愛する民イスラエルだけに向けられたものでした。しかし、悪
の働きの強力化、それも悪魔的な悪の台頭の中で、神の怒りが、終末の裁きを
前提としたものであることが明らかとなってまいります。そして、キリストの
出来事により、神の恵みがすべての人のものとなった今、すべての人が神の怒
りの対象となるのです。
 そこで、次の問題として、そのすべての人が終末の時を迎えたとき、「えっ、
終末の裁き? そんなこと知りませんでした」では困りますので、それ以前に
神の怒りを免れる道が示されていることが、神の裁きの前提となってまいりま
す。特に「愛の神」にはそれが求められます。キリストの福音が告げ知らされ
たところでは、キリストの福音を信仰をもって受け入れることにより、「逃れ
の道」が用意されます。しかし、キリストを知らない人々についてはどうなの
でしょうか。現代でも、そういう人がいるのではないでしょうか。

(続)


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