2012年09月30日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 五回「ローマの信徒への手紙2章1〜11節」
(11/6/26)(その2)
(承前)

 この問いに対して、パウロは、やはり有罪だ、と言います。なぜなら、すべ
ての人に、自分の被造物性に気づくチャンスがあるからです。そのことに気づ
けば、自分が神から命令を受けて、しかも神に背いた人間であることが分かる
はずだ、と言うのです。
 なのに、多くの人は、自分が有罪であることを認めないばかりか、逆に、こ
れでもかこれでもか、と傲慢な行為を繰り返しています。ゆえに、神としては、
無罪判決を出したくても出せない状態、有罪状態が続いている、ということで
す。
 本日は、2節、この有罪状態に対して神は、終わりの日に、正しく、真理に従っ
て裁きを行われる、というところから始まります。
 ところが、その裁き、神の怒りは、異邦人に対してはもちろんですが、ユダヤ
人に対しても向かっている、ということです。

3〜6節「このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている
者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れ
みがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容
を軽んじるのですか。あなたは、かたくなな心を改めようとせず、神の怒りを
自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日
に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになられます。」

 ところで、そもそも「神の怒り」とは何なのでしょうか。そこから話を進め
てまいりましょう。
 怒りは、人間の基本的な感情の一つですが、人間ばかりではなく、神々も怒
りやすい存在である、と人類は考えてきました。諸宗教の儀礼は、神の怒りを
なだめるところから始まった、とさえ言えるかもしれません。旧約聖書の神も
かなり怒りっぽい神です。ちなみに、旧約聖書ヘブル語では、「怒り」ないし
「怒る」と訳すことができる語が、10種類あり、そのどれもが、人の怒りとと
もに、神の怒りを表現する語です。ざっと数えただけで、旧約聖書の中で、神
が「怒る」ないしは「神の怒り」という表現は224回以上出てきます。「怒り」
を表わす語で、一番多く用いられているのは、「アップ」という語です。本日
の旧約書申命記9:22には別の語が用いられていますが、この「アップ」という
語は、もともとは「鼻息を荒くする」という意味の語でした。旧約聖書時代、
鼻は、もちろん第一には「息をする」器官ですが、第二の機能として考えられ
たのは、「臭いをかぐ」ことよりも、「怒りを表わす」ということでした。ア
モス書4:10を見ると、神が「怒った」という意味で、神が「鼻をつかせた」と
記されており、興味深いものがあります。神が「怒った」ないし「神の怒り」
という全表現224の中170がこの「アップ」です。
 神はなぜ怒られるのでしょうか。神の怒りは、そもそもは裁きと結びついて
はいませんでした。鼻を動かしての怒りは非常に人間的です。たとえば、出エ
ジプト記4:14、神がモーセに対して怒られる場面があります。神がモーセに出
エジプトのリーダーとしての使命を与えて送り出そうとしたところ、モーセは
「イスラエル人が自分の言うことを聞かないだろう」とか、「自分は弁がたた
ない」などと言って躊躇するものですから、神が怒りを発した場面です。ここ
は「アップ」が用いられています。が、ここで神はモーセを裁く気はありませ
ん。モーセのあまりのふがいなさに、神があきれたということで、この後、神
はモーセにむしろ助け舟を出されています。
 ところが、預言者の時代から、神の怒りの理由が深まってきます。用語も、
「アップ」以外の語が多くなってきます。すなわち、神の怒りの対象は、明確
にイスラエルの背信と定められ、そしてそのイスラエルの背信に対して神が怒
られるという構図が出来上がるのです。背信に対する怒りの向こうに裁きがあ
ります。しかし、それにもかかわらず、神はイスラエルに対して忍耐して、そ
の悔い改めを待ちました。
 が、中間時代になると、神の怒りは、イスラエルを攻撃する異邦人にも向け
られるようになってきました。状況は一変します。神の怒りは、そのまま裁き、
それも終末の裁きを意味するものとなっていったのです。
 この神の怒りと裁きを免れる道はあるのでしょうか。一般にはありません。
しかし、ユダヤ人だけは、神の律法を与えられていることにより、神の律法を
守ることにより、神の怒りを免れる道が開かれている、と考えられていたので
した。
 さて、新約聖書の時代に入って、ユダヤ教の律法主義はますます進み、ユダ
ヤ人の間では、自分たちは律法を守っているから大丈夫、律法を知らない、守
らない異邦人が神の怒りの下に裁きに合うのだ、と高をくくる雰囲気があった
ことは事実です。しかし、このユダヤ人の慢心に警笛を鳴らした人がいました。
それがバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、マタイによる福音書
によれば、次のように説教しています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを
免れるとだれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はア
ブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、
アブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる。」

(続)


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