2012年09月23日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
4回「ローマの信徒への手紙1章18〜32節」
(11/6/19)(その3)
(承前)
さて、新約聖書においては、「被造物」という語を使っているのは、ほとん
どローマの信徒への手紙のパウロのみです(他はヘブライ人への手紙で1回、ヨ
ハネの黙示録で2回のみです)。そして、パウロが「いいものと悪いものとが
半々ずついる世界」という意味でこの語を用いていることは明らかです。
それでは、「そのような」被造物から神を知る、とはどういうことなのでしょ
うか。ユダヤ教では次のように考えます。ある書物の中の言葉ですが、
「神はすべての造られたものに先立って存在し、またそれらを超越している。
それゆえ、神はどんな被造物にも含まれていない。」
なにやら、神と被造物とが全く係わりがないかのようですが、ここは逆説で
す。被造物の限界性を見るときに、逆に、神が人間や他の被造物を超えた存在
であることがわかる、ということなのです。ユダヤ教において、「被造物を見
て、神を知る」とは、このようなことでした、
そして、パウロはこのユダヤ教の考え方をも受け継ぎ、さらに、キリストの
出来事を通して受け継いだ考え方をさらに先へ進めました。キリストの出来事
が起こったとき、被造物の限界性はますます明らかとなったのです。キリスト
が顕れられたのに、被造物たる人間の大部分は、キリストを受け入れず、殺し
さえしてしまったのです。そこには、神性のかけらもありません。罪のみです。
しかし、人間の罪という限界の向こうに神の永遠性が見えるのです。
「被造物を通して神を知る」ということは、被造物の「よさ」を通して神を
知る、ということではありません。被造物が、「自分は結局は被造物に過ぎな
い」ということを知り、つまり「神に命令されている存在に過ぎない」という
ことを知る時に神を知るのです。この認識に至ることは、本当に被造物をよく
見るならば、聖書を知らなくとも、可能なのではないでしょうか。たとえば、
内村鑑三は、キリスト教と出会う以前から、自分は「神」に不敬虔なことを思
い、しているのではないか、と畏れていました。
しかし、異邦人の大部分は、内村鑑三ではありません。被造物としての限界
を知ろうともせず、神に命令されている、とも思わぬゆえに、「むなしい思い」
に陥ることとなりました。22〜31節には、真実を見失い、悪の深みにはまって
しまった人間の姿が描かれています。
22〜31節「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのな
い神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた
のです。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられ、そのた
め、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わ
りに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえ
られるべき方です。アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられ
ました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然
の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男同士で恥ずべきことを行い、その迷っ
た行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったの
で、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないこと
をするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、
殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を
侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、
無情、無慈悲です。」
第一は、偶像礼拝です。被造物としての限界を受け止めることはなくとも、
不安は感じ、救いを求めるのですが、求めるところが間違っているので、安心
を得ることはできません。
第二に性生活の乱れです。不安に中でそこに生きがいを見出そうとするので
すが、神との関係を見失った中で、やはり安心を見出すことはできません。
第三に諸悪徳です。神なく、基準がありませんから、混乱を生み、苦しみ、
痛みを味わう結果となります。
もしも、私たちがこのような混乱に陥ってしまっているとしたら、どうした
らよいのでしょうか。
32節「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っ
ていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認してい
ます。」
立ち直るための唯一の方法は、神に立ち返ることです。自分の被造物として
の限界、罪に気づき、「わたしに従ってきなさい」との神の命令に気づくこと
が、再出発の原点です。
(完)
第五回「ローマの信徒への手紙2章1〜11節」
(11/6/26)(その1)
2節からお読みします。
2節「神はこのようなことを言う者を正しくお裁きになると、わたしたちは
知っています。」
前回を振り返るところから始めてまいりましょう。人間が欲しくて欲しくて
たまらない、神による無罪判決。しかし、人間はなぜ無罪判決を必要とするの
でしょうか。なぜ有罪なのでしょうか。
(続)
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