2012年09月16日

〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 4回「ローマの信徒への手紙1章18〜32節」
(11/6/19)(その2)
(承前)

 それゆえ、その福音を受け取る者はだれでも、ユダヤ人ばかりでなく、ギリ
シア人もすべて救われる、これがパウロのメッセージの核心でした。
 しかし、人はなぜ神の無罪判決を必要とするのでしょうか。それは、すべて
の人が神に対して反逆したからです。これが次のテーマです。このセクション
の冒頭、18節に既に結論が示されているのですが、パウロはここで、要するに
人間の不義、つまり無罪判決を到底受けられない状況が神の怒りをかっている
と言っているのです。しかもその不義はすべての人に及んでいます。少し解説
を加えますと、パウロにとって真理とは神の働きです。原文は「真理を妨げる」
です。不義とは、神の働きを妨げること、神の命令に背くことです。当然の結
果として、神を礼拝しないこと、不信心が起こってくるのです。
 しかし、楽園にて実際に神から命令を受け、しかも実際に命令に従わなかっ
たアダムと、その直系の子孫であるユダヤ人はともかく、異邦人からは、神の
命令を受けた覚えはないし、よって命令違反をした事実もなく、それどころか
自分は、聖書で言うところの神なるものを全く知らない、という反論も起こっ
てくるのではないでしょうか。その起こるであろう反論に対して、異邦人もな
ぜ、不義なる者として神の怒りの下に置かれなければならないのか、を論じて
いるのが、今日のセクションです。パウロは結論を先に言います。

 19-21節「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。
神がそれを示されたからです。世界がつくられたときから、目に見えない神の
性質、つまり神の永遠の力と神性は、被造物に現れており、これを通して神を
知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、
神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、む
なしい思いにふけり、心が鈍くなったからです。」

 ざっくばらんに言いますと、たとえ、聖書の神について、聞いたことがなかっ
たとしても、被造物、つまり自然界や人間を見れば、神のことが分かるでしょ
う。なぜなら、神の性質は被造物において現れているから。だから、異邦人だ
から神を知らない、という言い訳は成り立ちません。そして、自分は不義では
ない、命令違反もしていません、という言い訳も成り立ちません。というのが、
パウロの言い分です。たしかに、自然や人間を見て、神を感じとるということ
は、ユダヤ教徒やキリスト教徒はもちろんのこと、すべての人が体験するとこ
ろでしょう。しかし、ユダヤ教徒、キリスト教徒以外の人は、その神に命令を
受けている、とは受け止めません。従って、その神をあがめていないとか、感
謝していない、と責められても、自分が責められる筋合いではない、と思うだ
けなのではないでしょうか。
 実は、ここからが今日の聖書解釈のツボです。そこで、聖書知らない民も、
神から命令を受けているのかどうか、この点を詳しく見ていくことと致しましょ
う。キーワードは「被造物」です。
 まず最初に、日本人、そしてギリシア人が陥りやすい「誤解」から入ってま
いりましょう。「目に見えない性質、神の永遠の力と神性とは被造物に現れ」
というパウロの表現について、人は何を思い浮かべるか、ということです。日
本人だったならば、たとえば「四季の移り変わりの美しさの中に、神の永遠の
愛を感ずる」と言う人が多いかも知れません。ギリシア人ならば、自然界に見
られる自然法則の中に、驚くべき幾何学の法則を見出し、神のすばらしさに思
いをはせる人もいるかもしれません。中味は違いますが、どちらも、自然界の
「すばらしさ」の中に、神の性質が表現されている、と受け取るケースです。
 ところが、ユダヤ人であるパウロは違うのです。そしてパウロだけでなく、
パウロが育った旧約聖書、ユダヤ教の環境の中では、そうは受け取られないの
です。
 実は、問題となっている「被造物」という語、表現ですが、ギリシア語では
「クティシス」と言いますが、旧約聖書では一回も出てきません。中間時代と
言われる、旧約聖書と新約聖書の間の時代になって初めて、人間も含めた自然
界を「被造物(クティシス)」という用語で捉える考え方が出てきたのです。で
は、「被造物」とはどういう中味をもった表現なのでしょうか。当時書かれた
ユダヤ教の文献、その一部は「外典」と呼ばれて、カトリック・キリスト教の
「第二正典」として受け継がれていますが、そこには「被造物」という用語が
盛んに用いられています。外典の中で被造物という語はどのような用いられ方
をしているのでしょうか。一例を挙げると、「集会の書」とも呼ばれるトビト
書10:19に次のような表現が出てきます。
 「どんな被造物が尊敬に値するか。人類だ。どんな人が尊敬に値するか。主
を畏れる人々だ。どんな被造物が尊敬に値しないか。人類だ。掟を破る者だ。」
 被造物の「典型」は人類なのです。が、その人類には、二種類、いい者と悪
い者とがいるのです。半々です。つまり、「被造物」という語が用いられる時、
それは「神によって造られたもの」であると同時に「よいものと悪いものとが
半々ずついるもの」を意味しているのです。

(続)



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