2012年09月09日
〔ローマの信徒への手紙講解説教〕
第
3回「ローマの信徒への手紙1章16〜17節」
(11/5/29)(その2)
(承前)
神の無罪判決という救いを何とかして得たい、これが旧約の民、イスラエル
のたっての願いです。しかし、現実は、このまま行けば、終末の裁きの時には、
「全員討ち死に」という状況です。そこで、ユダヤ教の中でも、「神は不義な
る者を義とし、契約を更新してくださるのではないか、救ってくださるのでは
ないか」という期待が生まれてきました。この考え方を強力に推し進めたのが、
クムラン教団、エッセネ派でした。その理屈は、「神は全能であられるから、
無罪をも造り出すことがお出来になるはずだ」でした。だから、神に気に入られ
る者については、「不義をゆるし、罪から清められるに違いない」ということ
でした。終末の時には、この神の憐れみがいただけるはずなのです。ただし、
クムラン教団においては、神に気に入っていただけるのは、規律に従った生活
をきちんと守れる者だけでした。
パウロも、かつては、このクムラン教団の考え方と共通する考えを持ってい
たのではないか、と考えられます。それゆえ、彼は律法を必死に守ってきまし
た。
その時代にあって、イエスは、神の国の宣教において、何と無罪判決を宣言
されました。しかし、それは、クムラン教団の人々のように、教団に入って必
死に規律を守ることによって、ではありません。ご自身が十字架上に死ぬこと
によって、何とすべての民に無罪判決が与えられる、というのです。それは、
ユダヤ教徒の発想の限界をはるかに超える出来事でした。それゆえ、使徒たち
は、十字架の出来事を、神が新しい契約を結ばれた出来事と受け止め、ユダヤ
教と結局は袂を分かつこととなりました。パウロも、復活のキリストとの出会
いを通して回心し、使徒団に加わることとなりました。キリストの出来事を次
のように受け止めたからです。神は、御子イエス・キリストを十字架に架ける
ことにより、神の義をすべての人に与えました。ですから、人は十字架を受け
入れることにより、キリストにあって新しい命を受け、神との新たな契約関係
に入るのです。ここにこうして教会という新たな契約共同体が形成されました。
人は、イエス・キリストを信ずる信仰によって、その共同体に加えられるので
す。
それでは信仰とは何か?
既に、旧約聖書、族長物語においても信仰の大切さは説かれています。族長物
語においては、アブラハムが高齢で、しかも行く先を知らずして神の示す地へ
と旅立ったことについて、「神の言葉」を信じたその行為が信仰と呼ばれてい
ます。アブラハムの信仰は、信仰の基本です。しかし、パウロは17節で、ハバ
クク書2:4を引用しています。ハバクク書2:4は次のように言います。
「見よ、高慢な者を。
彼の心は正しくありえない。
しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
「神に従う人」と訳されている部分、原文では「ツェデク」な人、つまり義
人です。神の前で無罪の人です。が、厳密な意味でそういう人はいません。ゆ
えに、「いのち」「永遠の命」を与えられる人はいません。しかしながら、
「神が何とかしてくれる」という期待、信仰を捨ててはなりません。ハバクク
書は、この「期待を捨てないこと」を信仰と言いました。クムラン教団は、こ
の期待を現実化するように努力したのです。
しかし、パウロはハバクク書を引用するにあたって、一箇所、手を加えまし
た。ハバクク書では、訳には表現されていませんが、「(わたしの)信仰によっ
て…」と記されていました。ハバクク書では、「信仰」もわたしの行為です。
そして「信仰」のある人、信仰心の強い人が救われるのです。が、パウロは、
ハバクク書の引用にあたって「わたしの」を取ってしまいました。そうすると
「義人は信仰によって生きる(新共同訳)」ではなく、「信仰による義人は生き
る(協会訳)」とも読めるのです。「信仰による義人は生きる」とは、どういう
意味でしょうか。それは、自分が持っている信仰によって救われる、というこ
とではなく、神のキリストによる義(無罪化)を受け入れる者が救われる、とい
う意味です。こうして、パウロは、旧約聖書以来の信仰概念を逆転させてしま
いました。信仰とは、必死に信じることではなく、受け入れることなのです。
信仰とは、はかない望みでも捨てずに頑張ること、ではありません。既に与
えられた救いの恵みを受け取ることです。ですから、逆にだれでも信仰を持つ
ことができるのです。そして、だれにでも力が与えられます。信仰によって力
を与えられて、今週一週間を乗り切りましょう。
(完)
第4回「ローマの信徒への手紙1章18〜32節」
(11/6/19)(その1)
18節「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対し
て、神は天から怒りを表現されます。」
神からの無罪判決。これがいただけたらどんなに嬉しいことか。しかし、な
かなか得られそうにもありません。が、はかない望みとして、律法を守る人に
はひょっとしたら与えられるかもしれない、というのでなく、神の側からキリ
ストの贖いによって無罪判決が既に与えられている、これが福音です。
(続)
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