2012年09月02日


〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 2回「ローマの信徒への手紙1章8〜15節」
(11/5/22)(その3)
(承前)

 段落が変わり、パウロは再び使徒の権威をもって語り始めます。しかし、使
徒の権威を振りかざして、ではなく、たとえ疑われたとしても使徒として仕え
る、という腰の据わった姿勢で、です。パウロにそうさせる力はどこから来る
のでしょうか。それは福音である、ことを忘れてはなりません。

(完)


第3回「ローマの信徒への手紙1章16〜17節」
(11/5/29)(その1)

 16〜17節「わたしは福音を恥じとしない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリ
シア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、
神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現
されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 パウロが、ローマ教会の、主として異邦人信徒のためにしたためた、ローマ
の信徒への手紙ですが、挨拶が終わり、手紙を書いた理由の説明が終わって、
いよいよ手紙の内容に入りました。その内容記述の冒頭に、「手紙の内容を一
言で言うとこうなる、」つまり結論を示しているのが、今日の聖書テキスト
(1:16-17)です。当時のローマ教会の人々にとっても、すぐには理解できなかっ
たのではないでしょうか。しかし、私たち、日本文化の中で生きる者にとって
は、この結論を理解する上でのいくつかの困難がある、と考えられますので、
最初にその点に触れておきたい、と思います。
 第一に、日本では、東洋でも同じと思われますが、手紙をしたためる場合、
結論は、延々と外堀を埋める作業をした後に、最後に手短に、控えめに述べる
のがしきたりであり、それゆえ、最初に結論を言われると、「失礼だ」と感じ
てしまうという問題です。しかし、これは東洋と西洋の文化の違いから来る心
理的な問題であり、乗り越えることにさしたる困難はありません。
 が、第二に、言葉(用語)の問題があります。パウロは、当然のことながら、
ヘブライ文化、そしてギリシアの文化の中で育まれた用語を用いて、手紙を書
いています。たとえ日本語に訳されたとしても、その意味内容にはどうしても
ズレがあり、その点が正しい理解を妨げることとなります。正確な言葉・用語
の意味を確認する必要があります。
 本日のテキストの「キーワード(鍵となる言葉)」は「神の義」という用語で
す。そして早速ですが、この語は、とりわけ十分な吟味が必要な語なのです。
 まず、日本語ですが、日本語で「義」という言葉を見たり聞いたりした時、
私たちは何を思い浮かべるでしょうか。わたしは、「赤穂浪士」であり、「里
見八犬伝」です。「義」という語は、本は中国語です。五倫五常の一つとして、
「人のあるべき正しさ」を示す徳目の一つでした。が、日本では、「忠義」と
いう語に見られるごとく、特に臣下が主君に対して正しくあることを示す語で
す。今、忠義は死語となってしまったかもしれませんが、「義理」は日本人に
中に根強く生きています。ゆえに、日本人は「神の義」という語について、
「神は義理堅いお方だ」と理解する傾向があります。
 ところが、聖書で「義」と訳されている語の原語は、「ディカイオスネー」
という語です。やはり「正しさ」を表す語ではあるのですが、その正しさの意
味は「宇宙全体があるべきところにある」という意味での正しさです。よって
古代ギリシアでは、「神の義」と言えば、ゼウスの神はゼウスの神の居所に、
そしてアポロンの神はアポロンの神の居所にいること、を意味しました。
 しかし、パウロは、ギリシア語を用いてローマの信徒への手紙を執筆しては
いるのですが、実はギリシアの文化ではなく、ヘブライの文化に基づいてギリ
シア語を用いています。もっと具体的に言えば、ヘブライ語の聖書をギリシア
語に翻訳した「70人訳聖書」を拠りどころとしています。70人訳聖書では、ヘ
ブライ語の「ツェデク」という語を「ディカイオスネー」と翻訳したのですが、
ヘブライ語の「ツェデク」は、どういう意味の語なのでしょうか。ツェデクは
もともと法廷用語でした。「無罪の状態」を表す語です。ゆえに、「ツェデク」
の表す正しさは「無罪である正しさ」でした。よって、ヘブライ人が、そして
パウロが「神の義」と言う時、それは「神が人間に対してなされる無罪判決」
のことを意味したし、するのです。これは、ギリシア人が考える「神の義」と
もずいぶん違うし、私たち、日本人が「神の義」という言葉から連想するもの
とは大変にかけ離れているのではないでしょうか。
 信仰を失った現代人にとっては、神が天上でどのような裁判をされ、どのよ
うな判決を下されようとも、どうでもよいことのように思われるかもしれませ
ん。しかし、神と共に生きたイスラエル人にとっては、どうでもよいことどこ
ろではありません。無罪判決をなんとしてでも得たい。しかし、これがなかな
か得られないのです。必死で献げ物をします。献げ物に加えて、イスラエル人
は律法を与えられていますから、律法を必死に守って神に喜ばれようとします。
が、これも乗り越えられない壁にぶち当たります。念願の無罪判決は将来の希
望でしかありませんでした。

(続)


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