2012年08月12日


〔ローマの信徒への手紙講解説教〕

第 1回「ローマの信徒への手紙1章1〜7節」
(11/5/15)(その2)
(承前)

 このアンティオキア教会で「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるように
なった」との記述どおり(使徒言行録11:26)、ユダヤ教と一線を画したキリスト
教が確立した、と言えるのです。そして、この教会を拠点として、本格的に異
邦人伝道が始まったのです。パウロもまた、このアンティオキア教会を拠点と
して異邦人伝道を行った一人でした。
 が、一口に異邦人伝道と言っても、その中身は様々です。実は、イエス以前
にも、ユダヤ教徒による異邦人伝道は行われていました。きっかけは、セレウ
コス朝によるユダヤ支配です。創造主なる神を知らず、偶像礼拝をする異邦人
の実態がいかに「ひどいか」を知ったユダヤ人は、逆に積極的に異邦人伝道に
打って出、唯一の神に立ち返るべきこと、さらに、律法を守るべきことを説き
ました。この伝道はかなりの成果を収め、一時的には、ローマ帝国の7パーセ
ントがユダヤ教徒であった、とも言われています。
 さて、一方の教会の、特にパウロの異邦人伝道は、一体何を伝えたのでしょ
うか。このことを知るためには、パウロの異邦人伝道の原点となった回心の体
験を見ることが必要です。パウロは、タルソス出身のファリサイ派の律法学者
でした。が、ダマスコ途上で復活のイエスに出会う、という体験をして、ユダ
ヤ教からキリスト教に改宗した、と言われています。しかし、パウロの場合、
回心によって別の神に仕えるようになったわけではありません。彼にとっては、
ユダヤ教の神も、キリスト教の神も、全く同じ、創造主にして唯一の神なので
す。しかし、ユダヤ教の時代においては、神は律法を通してご自身をお示しに
なっておられたのが、イエスの神の国、神の支配の到来の告知以後、律法の業
によってではなく、イエス・キリストを信ずる信仰によって救いに至る道が開
かれた、ということに気づかされた、ということなのです。ゆえに、パウロの
異邦人伝道は、「偶像礼拝を捨てて、唯一の神を礼拝するように」という点で
はユダヤ教の異邦人伝道と全く同じなのですが、だから「律法を守るように」
ではなく、「イエス・キリストを信ずるように」と伝えるのです。
 このようにして、以上のような異邦人伝道に召された、と自覚したパウロに
よって、実際に異邦人伝道がなされ、多くの教会が設立、形成され、その教会
において、新しい礼拝が整えられていきました。が、パウロの異邦人伝道の最
終目標は、帝国全体への伝道、そのためのローマ伝道でした。これは、パウロ
の想定した形でではなく、別の形で実現することとなりました。が、そのロー
マ訪問の前に、まだ見ぬローマの教会の人々のために、最終的には、礼拝のあ
り方について述べたのが、このローマの信徒への手紙である、ということがで
きます。
 本日のテキスト、1:1-7は、手紙の序文です。当時の様式に従って、「発信人」
→「受信人」→「あいさつ」の順に記されています。しかし、「受信人」と
「あいさつ」が7節にコンパクトに納められているのに対し、発信人について
の記述は、1-6節と、大変に長くなっています。が、決して宣伝ではありません。
自分が異邦人伝道という使命にいかに忠実に生きてきたか、が述べられていま
す。

1-6節「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒と
なったパウロから、―この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束さ
れたものであって、御子に関するものです。御子は肉によればダビデの子孫か
ら生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定
められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたした
ちはこの方により、その御名を広めて、すべての異邦人を信仰による従順へと
導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キ
リストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。―」

 パウロはここで、自分が福音に基づいて異邦人の使徒として召されている、
ということを述べています。
 では、なぜ福音が異邦人伝道の基礎となるのでしょうか。そもそも福音とは
何でしょうか。そもそも「福音」と訳されている語には、二つの意味がありま
した。一つは旧約聖書での意味です。イザヤ書40:9にあるごとく、神が終末の
時伝えるよい知らせが福音でした。それゆえ、「旧約聖書の預言者も福音を預
言している」と言われるのです(2節)。が、終末のよい知らせは、正しい人に
とってはよい知らせであっても、正しくない人にとっては、裁きの知らせです。
それゆえこの福音は、「両刃の刃」でした。一方、ギリシア世界においては福
音と言えば、ただ単に「うれしい知らせ」の意味でした。皇帝の誕生日を祝う
碑文にもこの語が用いられています。
 パウロは、以上の福音の二つの意味を踏まえ、「福音」を、イエス・キリス
トの出来事を指し示す言葉として捉えました。神は、終末の福音としてイエス・
キリストを遣わされました。イエス・キリストを受け入れる人にとっては、そ
れは裁きを超えて「うれしい知らせ」となります。しかし、受け入れない人に
とっては、裁きとなるのです。

(続)


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