2012年07月08日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第84回「マルコによる福音書15章21〜41 節」
(11/4/21)(洗足木曜日礼拝)(その2)
(承前)

 文書に記されているばかりではありません。紀元前104〜70年に大祭司であっ
たアレクサンドロ・ヤンナイウスは、「怒れる若きライオン」とあだ名されて
いましたが、自分に反対するファリサイ派を、800人十字架刑に処した、と伝え
られています。残酷なことが伝染していったのです。
 イエスの場合について言うならば、イエスはそもそも神殿冒涜罪で告発され
ました。その罰は、有罪判決が出たとしても、最大石打刑です。アレクサンド
ロ・ヤンナイウスのような暴君大祭司がいなければ、十字架刑ということはあ
りえません。さらに、イエスは、ローマの法から見ても、十字架刑に相当する
ようなことからは無縁です。
 それを、サンヒドリンの大祭司一派は、イエスがメシアとしての自覚を持っ
ておられたことを盾に、「ユダヤ人の王と自称していた」として、ピラトの裁
判にかけてしまったのです。
 ピラトはピラトで、イエスが国家への裏切り、脱走などという罪については
無罪であることが分かっていたでしょう。しかし、当面、ユダヤ人の前で権威
を示すという自己保身の必要に迫られて、イエスの十字架刑を既定の路線とし
て実行していくのです。
 イエスの十字架刑の要点は、神なきところで、人の思惑によって、無罪のイ
エスが処刑されていく、というところにあります。イエスは、無駄死にの死を
死んでいくしかないのでしょうか。
 この点について、前回のところで、一つの意味づけがなされていることを、
私たちは知りました。イエスが、ユダヤ民族、ユダヤ国家の存続のための犠牲
となる、殉教者となる、という考えです。この考えは、ヨハネによる福音書に
よれば、大祭司カイアファによって表明されました。そして、イエスのことを
「十字架につけよ」と叫んだ群衆にも、この考えが共有されていた気配があり
ます。とはいえ、イエスが、なぜ、この自己中心的な、大祭司を頂点とするユ
ダヤの社会システムのために犠牲とならねばならないのでしょうか。やはり、
無駄死になのではないでしょうか。
 この暗い出来事の先に希望はないのでしょうか…。あるのです。暗闇の極み
の中に希望があるのです。本日の十字架の記録から読み取ってまいりましょう。
 その希望の兆しは、すでに21節の中に示されることとなりました。イエスが
架けられた十字架が、どのような形のものであったのか、本当のところは分か
りません。が、ともかく横棒が重かったのでしょう。それで、だれかに担がせ
ることとなりました。本来は、弟子たちの、十二人のだれかが担ぐべきです。
8:34、イエスがフィリポ・カイサリア地方で受難予告をされた時、弟子たちに
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに
従ってきなさい」とはっきりおっしゃいました。しかし、十字架を背負うイエ
スの周囲には、弟子たちの姿は、十二人の姿は、誰一人としてありませんでし
た。代わりに十字架を担いだのが、アレクサンドロとルフォスとの父で、シモ
ンというキレネ人(クレタ出の人)でした。キレネ人だからといって、必ずしも
外国人であるとは限りません。寄留のユダヤ人かもしれません。むしろ、その
可能性の方が高いでしょう。しかし、寄留のユダヤ人だとしても、少なくとも
本土のユダヤ人ではありません。ユダヤ本土の人でない人が、イエスの十字架
を担いだのです。これからの神の国の教会のあり方が、だれに担がれていくの
か、がそこに示唆されているのではないでしょうか。ちなみに、アレクサンド
ロとルフォスとは、後の教会で知られていた人物と推測されます。教会の担ぎ
手は、本土以外の人々によって継承されていくのです。
 しかし、それにもかかわらず、十字架の出来事そのものは、相変わらず暗闇
の中にありました。

 22-32節「そして、イエスをゴルビタという所―その意味は「されこうべの
場所」―に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエ
スはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った。だれが何を取るかくじ引きで決めてから、イエスを十字
架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書い
てあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、
十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしっ
て言った。『おやおや神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自
分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者と一緒になって、代わ
る代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メ
シア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じ
てやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」

 マルコに限らず、他の福音書についても言えることですが、福音書記者たち
は、十字架の『物理的悲惨さ』についは、ほとんど触れていません。が、これ
は、福音書記者が、何らかの理由があってそれを避けているというわけではあ
りません。十字架刑の悲惨さについては、当時の人々は、十分知っている事実
でした。イエスも「同じ体験」したということなのです。

(続)


(C)2001-2012 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.