2012年06月17日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第82回「マルコによる福音書15章1〜8節」
(11/04/10)(その2)
(承前)

 皇帝のいない留守に、ローマで権力を振るい、あわよくば皇帝の地位を得よ
うとしたのが、近衛司令官セイアヌス(セヤーヌス)でした。このセイアヌスの
手下の一人がポンテオ・ピラトだったのです。セイアヌスは大のユダヤ嫌いで、
それゆえ子分のピラトもユダヤに圧政を強いた、と言われています。ところが、
セイアヌスに危機が訪れました。紀元後31年10月17日のことです。ティベリウ
スは、隠棲中のカプリ島から密かに元老院に手紙を送りました。その手紙には、
「この手紙をセイアヌスの前で読め」との指示が添えられていました。が、セ
イアヌスは、この手紙において、自分が次期皇帝に任じられると思っていたの
です。翌18日、元老院が開かれました。ところがそこで読まれたティベリウス
の手紙には、セイアヌスを反逆罪で糾弾する主旨が記されていたのです。ティ
ベリウスは、セイアヌスがティベリウスの子どもを暗殺したこともお見通しで
した。セイアヌスの減刑への期待も空しく、元老院は、セイアヌスを絞め殺し
の刑に決定し、その日のうちに処刑してしまいました。その後ローマでは、セ
イアヌス派の粛清が行われた、とのことです。
 セイアヌスの子分として、尻に火がついたピラトは、自らが粛清されるのを
免れるため、ユダヤをうまく治めていることを誇示する必要がありました。大
祭司は、ピラトが抱えたその辺りの諸事情を察知していたようです。そこで大
祭司が提案したのではないでしょうか。大祭司が差し出した囚人を、反逆罪の
犯人に仕立て上げ、一見民主的な裁判を行ってユダヤ人たちを納得させた上で
処刑する、という段取りです。ピラトと大祭司の利害が一致したのです。こう
してイエスは、地の支配に身を委ねてしまった大祭司たちと、ローマの小権力
者のあくなき権力闘争の駒として、弄ばれることとなってしまいました。
 この世の裁判においては、もはや冒涜の問題は吹っ飛んでしまいました。反
逆罪についてだけが問われることとなります。ピラトの「お前がユダヤ人の王
なのか」との質問は、ピラトが「メシア」の宗教的側面には全く関心がなく、
「ユダヤ人の王」が、ローマの支配に影響を及ぼすかどうかにのみ、関心があ
ることを示しています。イエスは真のメシアです。その意味で当然、ユダヤ人
の王でもあられます。しかし、今ユダヤ人の間で国家権力を振りかざしている、
という意味では全くありません。イエスの「それは、あなたが言っていること
です」との答えは、ピラトの言うことが半分は当たっているが、彼は本当の所
はわかっていない、ということを言っているのです。
 次に祭司長たちがイエスを訴えました。何を訴えたのでしょうか。冒涜罪云々
ではもはやないでしょう。この世の権力者に媚びて、あるいは利用して、イエ
スを反逆罪で陥れるために、大祭司にあるまじきことまで言ったかもしれませ
ん。この世の支配に媚びる者は、自らをも、その支配の下に貶めるのです。
 そして、この「裁判もどき」では、群衆という名の暴徒も、大きな役割を果
たすこととなりました。

6-8節「ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放し
ていた。さて、暴動のとき、人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バ
ラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要
求し始めた。」

 祭りの度ごとに、人々が願い出る囚人を釈放するという慣習が本当にあった
のか、定かではありません。が、仮にあったとしても、「普段の」ピラトなら、
反逆罪に問われた囚人を釈放することなど絶対になかったでしょう。しかし、
その方向に事は進みました。バラバがどのような人物なのか、全く分かりませ
ん。が、ローマに反抗して、ユダヤの国家権力を我が物にしよう、としたこと
だけは確かです。諸事情の下で、弱気になっていたピラトと、ローマに反抗し
て国家権力を得ることだけが目的のバラバとバラバ支持の暴徒とか、ここで何
と利害が一致し、さらにイエスの運命を弄ぶこととなりました。
 神なき世界で、イエスは孤独でした。イエスは「神の国、神の支配は近づい
た」と言われて、宣教を開始されました。今や、その成就の時が近づいたはず
です。しかし、目の前の現実は、神なき支配の力の下にあり、神の支配は全く
見えません。しかし、イエスは徹底的に沈黙を守られました。その沈黙の中で、
神のご意思への絶対的な服従をお示しになられたのです。この沈黙の中に、神
の国の完成が孕まれているのです。
 「神はどこにおられるのか」と問わざるを得ない現実の中に私たちはいるか
も知れません。が、その「現実」の中にこそ、神の国の完成が孕まれていること
を、わたしたちは見逃してはなりません。

(完)


第83回「マルコによる福音書15章9〜20節」
(11/04/17)(その1)

 9節「そこで、ピラトは、『あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか』と言っ
た。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだ、と分かっていた
からである。」

(続)


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