2012年06月03日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第81回「マルコによる福音書14章53〜72
節」
(11/04/03)(その3)
(承前)
60-65節「そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ね
た。『何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どう
なのか。』しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重
ねて大祭司は尋ね、『お前は、ほむべき方の子、メシアなのか』と言った。イ
エスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、
天の雲に囲まれて来るのを見る。』大祭司は衣を引き裂きながら言った。『こ
れでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』
一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きか
け、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、
下役たちは、イエスを平手で打った。」
大祭司は、客観的、公正な立場で裁判をする裁判官ではありません。神殿礼
拝システムを代表する、ユダヤ教を代表する最高責任者です。その大祭司が
「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているがどうなのか」
と問うたということは、イエスの言葉が、イエスの言葉が(ユダヤ教の)神殿改
革の範囲内なのかということを問うたということ、すなわち、イエスが、ユダ
ヤ教の権威、カイアファの権威に従うかどうかを聞いたということなのです。
そして、イエスが「黙っていた」ということは、はっきりとその権威を否定し
た、ということでした。そこで、大祭司は「お前は、ほむべき方(神の婉曲表現)
の子、メシアなのか」と、イエスの拠って立つところが何であるのか、問いま
した。すると、イエスが「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に
座し、天の雲に囲まれて来るのを見る」と、ご自分を真のメシアであるとの答
えをもって大祭司に答えました。旧約聖書の時代以来、メシアとは、神に油注
がれてある任務につかせられた者のことでした。その任務とは、王であり、預
言者であり、祭司でした。大祭司とはメシアなのです。その大祭司の前で、イ
エスは「自分こそメシアである」と主張されたのです。大祭司自身だけでなく、
大祭司に代表される神殿礼拝システム、そしてユダヤ教を、イエスはここで全
否定されたのです。イエスはユダヤ教の立場からする冒涜をここで実行された
のです。それゆえ、大祭司の問いに対する沈黙とその答えとによって、イエス
の死刑判決は確定したのです。衣を引き裂くという行為は、裁判手続きにきち
んと定められた手続きで、死刑判決の時の仕草です。死刑が決定した途端、サ
ンヒドリンの議員たちはイエスの侮辱を始めました。しかし、死刑判決を行っ
ても、死刑執行の権限のないサンヒドリンが、イエスをどうやって死刑にする
のか、それは次の問題として、もう一方のペトロの様子を見てみましょう。
66〜72節「ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。『あなた
も、あのナザレのイエスと一緒にいた。』しかし、ペトロは打ち消して、『あ
なたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない』
と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、
周りの人々に、『この人は、あの人たちの仲間です』とまた言いだした。ペト
ロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言っ
た。『確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。』すると、ペ
トロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知
らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、『鶏が二度
鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないというだろう』とイエスが言われた
言葉を思い出して、いきなり泣き出した。」
中庭で火にあたっていたペトロを見て、じっと見て、大祭司に仕える女中の
一人が、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒だった」と言いました。ペト
ロがイエスと一緒だったのは、ただ一緒にいただけというわけではありません。
新しい神の国の教会に仕える使命を与えられて一緒にいたのです。ですから、
ユダヤ教の権威の下において行われた裁判において、新しい神の国の教会の礼
拝の始まりを高らかに宣言されたイエスに呼応して、ペトロもユダヤ教の権威
を脱しなければなりませんでした。なのに、ペトロは、ユダヤ教の権威の下で、
イエスを単なる犯罪者としてしか扱わない女の言葉に翻弄されて、うろたえて
しまいました。しかも、一度目は、鶏が鳴いても、自分がユダヤ教の権威に呪
縛されていることにさえ、気づきません。二度目、三度目になって、イエスを
はっきり「知らない」と言ってしまって、そして、鶏がもう一度鳴いて初めて、
彼は、自分が、イエスのお見通しどおり、ユダヤ教の奴隷となっていることに
気づいたのです。そして、イエスから与えられた使命に生きていない自分に気
がついたのです。
イエスとその弟子たちには、恐ろしいほどの苦難が待ち構えています。しか
し、その苦難を乗り越えてこそ、初めて、神の国の教会の形成があるのです。
(完)
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