2012年05月13日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第80回「マルコによる福音書14章26〜52 節」
(11/03/27)(その2)
(承前)

 そして、「わたしは死ぬように悲しい(原文は、「私の魂は死のように非常に
悲しい」)」と言われました。これは、詩編42:6などを反映しており、神との関
係の回復を求める祈りです。そして少し行って地面にひれ伏し、つまり地面に
崩おれ、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈
られました。「時」とは、そもそもは神の国の完成の時ですが、イエスにとっ
ては、苦しみの時であられるのです。
 この神の国の完成を目前に控えての、イエスの動揺を見て、2世紀の反キリス
ト教の哲学者ケルソスは、「なぜ、イエスは悲しみに悲しんで、死の恐れを逃
れようとしたのか。ソクラテスは、従容として死に赴いたではないか」と批判
しました。
 しかし、ケルソスは、36節のイエスご自身の口から出た祈りを知らなかった
のか、あるいはきちんと受け止めていなかったがゆえに、そのイエス批判はき
わめて表面的なものに止まってしまいました。イエスは、「アッバ、父よ。あ
なたには何でもおできになります」との、イエスにしかなし得ない父なる神へ
の呼びかけに続いて、すべてを信頼しておられることを述べておられます。そ
の上で、「この杯(当然「死の杯(10:38)」)を取り除けてください」と祈られる
のです。イエスはすでに三度も受難予告(8:31以下、9:31、10:32以下)を行って
おられるのに、なぜこのような祈りを祈られたのでしょうか。それは、旧約聖
書の預言者もそうであったように(ヨナ書4章)、神に対して、自分が神から与え
られた使命について、「本当にそれでいいのですか」と確認する祈りなのです。
 神の国完成のために、本当にイエスの受難が必要なのか、確認する祈りなの
です。もし確認できなかったならば、その死は神のみ心とは係わりのないもの
となって、ただの「野垂れ死に」となってしまうことでしょう。イエスが求め
ておられたのは、自己の安楽ではなく、神のみ心でした。「わたしが願うこと
ではなく、御心にかなうことが行われますように」との祈りに表現されていま
す。三度祈られたイエスは、神のご計画を確認され、「もうこれでいい。時が来
た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏
切る者が来た」とはっきり言われて、従容として受難に向かわれたのでした。
 さて、このようにして神のご意志に従おうとされるイエスに対して、二つの
弱さが対比されます。一つは「弟子たちの弱さ、」もう一つは「群衆の弱さ」
です。まず、「弟子たちの弱さ」です。

 27-31節「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。
「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ。
しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。』すると
ペトロが、『たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません』と言っ
た。イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏
が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』ペトロは力を
込めて言い張った。『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたの
ことを知らないなどとは決して申しません。』皆の者も同じように言った。」

 イエスの受難は、神のみ業がなされるための受難、すなわち終末の苦難の一
端です。この苦難には、準備をもって臨み、最後まで耐え忍ばねば(13:11)、
耐えられません。弟子たちには準備が全くありませんでした。弟子たちは、三
度も受難予告を聞いているので、イエスの受難について知らないことはなかっ
たでしょう。ただ、準備がなかったのです。イエスが、ゼカリヤ書3:7を引用し
て言われたように、つまずき、散ることとなってしまいました。
 ところが、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきま
せん」と、自分だけは例外である、との主張をしました。しかし、ペトロも準
備があったわけではありませんから、例外ではありえませんでした。イエスは
「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと
言うだろう」と宣告され、それはその通りになってしまいました(14:66〜)。
鶏が二度鳴く、というのは、午前三時の知らせ(時報)のことであり、三度否認
するとは、「確かに」否認するということですから、必ずしも、イエスが超能
力でもってペトロの行動を予知した、というわけではありません。受難に対し
て準備のないペトロが、つまずき、そして、イエスを裏切ることになることを、
イエスはお見通しであられたのです。
 それでは、弟子たちは、どうすればイエスと同じように受難に備えることが
できたのでしょうか。それは、「イエスと共に祈る」ことによってでした。そ
して、弟子たちには、それができなかったのです。イエスは、ゲツセマネの園
で、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に「ここを離れず、目を覚ましていなさい」
と指示されました。「イエスと祈りを一つにしなさい」との意です。しかし、
弟子たちは眠ってしまいました(27節)。正確に訳すと、「居眠り」をしてしま
いました。イエスは、ペトロに言われました。「シモン、眠っているのか。わ
ずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まし
て祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」

(続)


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