2012年05月06日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第79回「マルコによる福音書14章18〜25
節」
(11/03/20)(その3)
(承前)
「一同が食事をしているとき」ともう一度繰り返されますが、同じパスカの
食事の時のことでしょう。が、そのプログラムのどこかで、イエスは通常の式
文にはないことを言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と
いう言葉と、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血であ
る」という言葉です。キリスト教会では、十字架の出来事を踏まえ、パンを、
十字架上で贖いの死を遂げられたキリストの体、ぶどう酒、杯をそのキリスト
の体であると同時に、すべての者を神の国、神の支配に入れるという新しい契
約のしるしとして受け止めて、聖餐を守っています。
しかし、問題は、当時のユダヤ教徒が、このイエスの言葉をどのように受け
止めたか、ということです。それは、俗説で言われるような「人肉屠食のタブー
違反」といったことではなく、「神殿ではない、新たな場所での礼拝、そして、
焼き尽くす献げものではなく、自らの肉と血とを献げる礼拝の始まりの宣言」
と受け止められた、と考えられるのです。ユダヤ教の立場をとった、イスカリ
オテのユダも、そのように受け止めたのではないでしょうか。それゆえ、イエ
スを、ユダヤ教の批判者としてではなく、「ユダヤ教の破壊者」として、最後
の晩餐を期に、逮捕したのです。
イスカリオテのユダの罪は、先生であるイエスに対して、「個人的に善から
ぬ思いを抱いた」とか、「心が離れた」といったことに止まりません。明確に、
意図的に、神の国、神の支配の実現を妨害し、神の国の教会の建設を阻止しよ
うとしたところにあるのです。ゆえに、呪われねばならないのです。
が、21節で、ユダやその同じ罪を犯す者に対して、イエスの言葉として「不
幸だ」と言われているところ、原文では「ああ」というため息だけが記されて
います。このため息は何を意味するのでしょうか。まず、怒り、嘆きの表現で
あると思われますが、悲しみの表現でもあるのではないでしょうか。ユダが斯
様な罪を犯ししまったことに対して、イエスは、怒り、嘆きと同時に、深い悲
しみをもって受け止められたのではないでしょうか。もしも、ユダが自分の罪
を悔い改める思いをもって悲しむことがあるならば、イエスの深い憐れみが、
ユダの許に届くのではないでしょうか。
私たちは、イエスの教会形成のみ業に逆らった罪の重大さを知ると同時に、
主イエスの深い悲しみと憐れみを知る者でありたい、と願うものです。
(完)
第80回「マルコによる福音書14章26〜52節」
(11/03/27)(その1)
26節「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」
イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言されて宣教を開始されま
した。そして「十二人」という同志を募り、今までの神殿礼拝を中心としたユ
ダヤ教の共同体ではなく、神の国の教会の設立を目指してこられました。とこ
ろが、その同志の中に、旧来のユダヤ教の立場に寝返る者が現れ、いよいよ、
イエス逮捕に始まる、受難の時を迎えられることとなります。しかし、皮肉な
ことに、この受難の時こそ、イエスが告知された神の国の完成の時でもあった
のです。
さて、イエスと十二人とは、いわゆる最後の晩餐において、新たな神の国の
教会の礼拝を確立されました。すなわち、キリストがご自身を献げられたよう
に、信徒も、自分自身を生きた、聖なる献げものとして献げるのです(ローマ
12:1)。弟子たちがどこまで認識していたか定かではありませんが、イエスは、
受難に向けて、祈るためにオリーブ山に向かわれました。オリーブ山は、たぶ
んオリーブの木がたくさん植えられていたので、そう呼ばれていたのではない
でしょうか。弟子たちの歌った賛美の歌とは、おそらくパスカの食事の際に歌
われるハレル(詩編113〜118編)で、弟子たちがイエスの思いを受け止めて賛美
の歌を歌ったというわけではない、と思われます。
問題は、「一同」と訳されている語です。原文は「彼ら」です。イスカリオ
テのユダが含まれていたかどうか、わかりません。が、最後の晩餐が、ユダが
イエスと訣別する転回点となったのだとしたら、ここではユダは脱落していた、
と考えるのが妥当でしょう。皮肉なことに、十二人の中で、ユダだけが、イエ
スの受難のために備え、準備をしていたこととなります。
さて、イエスご自身は、この受難にどのように対処しよう、としておられた
のか、私たちは、先に「ゲツセマネの祈り」に目を向けることと致しましょう。
ところで、ゲツセマネとは、「酒搾り場」との意味です。かつてそこに農場
があったと思われます。イエスはその入り口のところに弟子たちを控えさせ、
ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて中に入っていかれました。ヤイロ
の娘の蘇生(5:37)、み姿代わり(9:21)の時と同じく、十二人の代表者たる三人
も共に与らせたい、とのイエスのご配慮です。
そこで、イエスは、受難のことを思い、ひどく恐れ、もだえ始められました。
(続)
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