2012年04月29日
〔マルコによる福音書講解説教〕
〔マルコによる福音書講解説教〕
第79回「マルコによる福音書14章18〜25節」
(11/03/20)(その2)
(承前)
現実にあるとしたら、自分が永遠に呪い続けられることになり、とても耐え
られません。それで「まさかわたしのことでは」と口々に聞いたのです。原文
のニュアンスを言えば、「決してわたしではない」という強い否定です。
弟子たちの反応に対するイエスの答えは、「十二人の一人で、わたしと一緒
に鉢に食べ物を浸している者が裏切り者だ」ということでした。「一緒に鉢に」
と訳されているところ、「一緒に一つの鉢に」とする有力な写本もあります。
また、「浸している」と訳されているところ、「浸す」が正確な訳です。つま
り、この食事において、一つの鉢だけが回されていたとすると、イエスと一緒
にいた全員が、「一緒に一つの鉢に浸す者」なのです。すなわち、イスカリオ
テのユダだけでなく、全員にイエスを裏切る可能性があることを指摘された、
とも読めるのです。全員が呪われる可能性があります。
そして、イエスは呪いの言葉を発せられました。
21節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが、人の子を裏
切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
イエスは、神の国、神の支配の完成のために、この世に来られました。ゆえ
に、神の国、神の支配の完成を妨げようとする者には、厳しく臨まれます。悪
霊に対してそうでした(5:8など)。しかし、悪霊に憑かれた人に対しては、憐
れみをもって臨まれました(5:19)。が、イエスを裏切る者に対しては呪いのみ
です。しかも、その呪いは、「その人は生まれなかった方がよかった」という、
ユダヤ教の伝統の中では、最も厳しい呪いの言葉に行き着くのです。
が、そもそも、イスカリオテのユダはすでに着手し、他の者たちにもその可
能性のあった裏切りの罪は、何ゆえそしてどのようにして起こってきたのでしょ
うか。10〜11節を見てまいりましょう。
10節「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭
司長たちのところへ出かけて行った。」イスカリオテのユダは、マルコでは
3:19で名前が挙げられているだけで、その人物像については、一切分かりませ
ん。それゆえ、彼の裏切りの動機、理由などについては、すべて10節から推し
量るしかありません。そして、そこには、裏切りの意思、気持ちを持った者が、
「祭司長たちのところへ出かけて行った」という一文のみが記されているので
す。
もしも仮に、私たちが、自分の先生や上司を裏切ろうとする意思を抱いた場
合、一人で先生や上司を陥れようと謀ることもあるでしょうが、多くの場合仲
間を求めるのではないでしょうか。そして、その仲間を求めるとしたら、裏切
りが首尾よく成功した後、一緒にやっていけそうな者、すなわち同じ思いの者
を選ぶのではないでしょうか。イスカリオテのユダも、一人でイエスを裏切る
ことだってできたことでしょう。イエスを殺害することを企てたかもしれませ
ん。しかし、彼はそうしないで、まず、祭司長たち、すなわちサンヒドリンの
議員たちの所へ出かけて行きました。ということは、イスカリオテのユダと、
サンヒドリンの議員たちとは、思いを一つにしていたということなのではない
でしょうか。
イエスとサンヒドリンの議員たちとの対立点は何だったでしょうか。それは、
宮きよめにおいて、そして、11:27〜12:12の対論のところで明らかとなりまし
た。サンヒドリンの議員たちも、神殿改革は必要だ、と考えていましたし、受
け容れても来ました。イエスよりももっと激しい神殿改革を受け容れたことも
ありました。しかし、イエスが、ユダヤ人以外の人も神殿礼拝の正式メンバー
とすべし、と主張したとき、それだけは受け容れられなかったのです。一方、
イスカリオテのユダも、「十二人」の一人でありながら、神の国の新しいイス
ラエルの十二部族の教会リーダーとなるよりも、ユダヤ人だけによる神殿礼拝
に固執したのではないでしょうか。これが、ユダの裏切りの出発点、そしてイ
エスのお考えとの分岐点だったのではないでしょうか。しかし、11節「彼らは
それを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よく
イエスを引き渡せるか、とねらっていた。」金については、マルコによれば、
ユダから申し出たものではありませんでしたから、裏切りの「動機」ではなさ
そうです。それよりユダの関心は、「どうすれば、折よく(=時宜を得て)、イ
エスを引き渡せるか」にありました。つまり、神殿礼拝を異邦人にも解放する、
という対立点だけでは、イエス逮捕は難しかったのでしょう。ユダが、イエス
引渡しの決意を本当に固め、実行に移す決心をしたのは、実は「この食事(最
後の晩餐)」の時だったのです。
22〜25節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを
唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわた
しの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになっ
た。彼らはその杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの
人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の
国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは、もう決
してあるまい。』」
(続)
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