2012年04月22日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第78回「マルコによる福音書14章12〜17 節」
(11/03/13)(その3)
(承前)

 場所についてばかりでなく、パスカの食事へ十二人を招くことも、イエスが
あらかじめ定められたことでした。み心でした。二人はこの後、小羊を用意し
て、屠り、バスカの食事そのものの準備に取り掛かったことでしょう。かなり、
忙しいことでしたが…。
 それでは、「十二人」を用意周到に招かれたシュイエスのみ心とは何なので
しょうか。それを考える上で、私たちは、パスカの食事が、そもそも家族で、
すなわち家庭で食べるべきものであったことに注目したいと思います。
 出エジプト記12:3以下によれば、「人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家
族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。もし家族が少人数で小羊一匹を
食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめ
いの食べる量に見合う小羊を選ばねばならない」とあります。パスカが家族単
位で守られる祭りであることがわかります。そのわけは、族長時代がそうであっ
たように、家族は神殿に似たところ、すなわち神のみ業が働くところ、と考え
られていたからです。パスカとは、家族礼拝のようなものと言っていいでしょ
う。
 が、家族とは、どの範囲の人を指すのでしょうか。出エジプト記12:44以下
によれば、外国人は家族の一員ではない、金で買った男奴隷の場合、割礼を施
していないとダメ、とかなり閉鎖的であることが分かります。ところが、イエ
スの時代のハラカーによれば、成人した男女の子ども、ヘブライ人の男女の奴
隷、そして妻は、本人の同意を得て、パスカのグループに入れられるというの
です。これらの人々は家族の正規メンバーだ、ということです。さらに、成人
していない男女の子、そしてカナン人の男女の奴隷は、本人の同意がなくとも、
パスカのメンバーになる、と言われています。さらに驚くべきことには、家長
は自分の権限で、他人をパスカのメンバーに加えたり、外したりできることと
なりました。ユダヤ教時代にも、神の恵みへの招きの輪は、そこまで広がって
いました。イエスと十二人は、家族を核とした集団ではありませんが、イエス
の権限で、パスカのグループ、家族のような者とされていたのです。
 しかし、この十二人の中には、すでに裏切りの企てを始めていたイスカリオ
テのユダも含まれていました。そして、イエスはユダの企みを知っていたにも
かかわらず、彼を招きました。ユダヤ教にも、不浄な人がパスカを守る際には
どうすればよいか、といった問題があって、それらの人々のために、「第二の
パスカ」がちょうど14日後に行われることとなっていました。しかし、イエス
は、そのような「準会員」としての取扱いではなく、ユダを、正規に「十二人」
の一人として招きました。この招きに、私たちは、贖いの愛に命をかけられた、
主イエスの並々ならぬご決意を見ることができるのではないでしょうか。
 私たちも、このイエスの愛をもって、主の晩餐に招かれていることを覚え、
心して礼拝を守ってまいりましょう。

(完)


第79回「マルコによる福音書14章18〜25節」
(11/03/20)(その1)

 18節「一同が席について食事をしているとき、」

 イエスを家長とし、十二人を家族とするパスカの食事がいよいよ始まりまし
た。出エジプト記12:11には、パスカの食事について、「腰帯を締め、靴を履
き、杖を手にし、急いで食べる」とあり、本来は、パスカの食事は立って食さ
れたものでした。しかし、いつしか、パスカの食事も、寝そべって(これがイ
スラエルの正式の食事のスタイルです)食べられるようになりました。「イス
ラエルがもはや、奴隷ではなく、自由人である」との意を込めて、です。それ
ゆえ、イエスと十二人の食事も、席に着いて、原文どおりに言えば、「寝そ
べって」なされました。
 パスカの食事は、式順に従って粛々と進められます。そのどの場面でか、は
分かりませんが、イエスが突然驚くべき発言をされました。

 「イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、
わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』」

 「私と一緒に食事をしている者」とは、「食事に招かれた者」との意です。
その者の中に、十二人として神の国の新しい教会のリーダーに召された者の中
に、裏切り者がいる、というのです。
 が、先週も触れたように、イエスは、十二人の中に裏切る者がいることを承
知の上で、十二人全員をパスカに招かれました。ということは、その者の罪を
贖う、引き受ける覚悟をもって、イエスはその裏切り者を招かれたはずです。
なのに、イエスはここで裏切り者を告発されます。なぜなのでしょうか。

 19-20節「弟子たちは心を痛めて『まさかわたしのことでは』と代わる代わ
る言い始めた。イエスは言われた。十二人のうちの一人で、わたしの一緒に鉢
に食べ物を浸している者が、がそれだ。」

 「心を痛めて」と記されている語、10:23で、金持ちの男がイエスの許を去っ
ていく時の心理の表現にも用いられています。「そのようなことが起こってほ
しくない。でも、現実にはある…」の意味です。

(続)


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