2012年03月25日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第76回「マルコによる福音書13章28〜37 節」
(11/02/27)(その3)
(承前)

 「その日、その時」とは、神の国、神の支配到来の時ではありません。旧約
聖書では、「その日、その時」を「主の日」と表現しており(アモス書5:8など)、
神が歴史を閉じられる、本当に本当の終わりの日のことです。神の国、神の支
配の始まりをもって、神は終末の時を始められるわけですが、神の国の教会の
設立後、2000年の歩みから知る限りですが、その時は、私たちの時間感覚のス
ケールで推測するほどには、すぐには来ないようです。終末の遅延の問題は、
すでに初代教会の時代からありました。Tテサロニケ4:15から窺われるところ
によりますと、使徒パウロは、自分が生きているうちに終末が来て、人の子、
すなわち再来のキリストに出会える、と受け止めていたようです。教会におい
ても同様で、ですから、「主よ、来りませ」が、初代教会におけるクリスチャ
ンの「合い言葉」だったのです。が、パウロや初代教会のクリスチャンの存命
中には、終末は来ませんでした。がっかりした人もいたかも知れません。しか
し、この終末の遅延の問題は、すでにユダヤ教にて解決済みの問題です。死海
文書の中に、「終末のしるしは、神の隠された目的のために遅延される」と記
されています。つまり、終末の時については、歴史を始められた神のみがご存
知なのです。ですから、子、当然イエスのことですが、もご存知ありません。
だから、神の国の教会に仕える使命を与えられた弟子たちは、その時に申し開
きができるように、「目をさまして」おらねばならないのです。これが、神の
国の教会設立後の弟子たちに与えられ、私たちにも及ぶ命令です。とは言え、
目を覚ましてばかりいたら、不眠症や、それどころか、不安神経症にも陥りか
ねません。「目を覚ましていなさい」という訳は、誤解を招きます。原文のニュ
アンスを尊重するならば、「油断しないでいなさい」の訳の方が良いかもしれ
ません。いつも、主が来られることを覚え、すなわち主が共におられることを
忘れないようにしなさい、の意です。
この命令を具体化するために、イエスは34-36節のたとえを語られます。

 34-36節「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当
てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくよう
なものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、
夕方か、夜明けか、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないか
らである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかも
しれない。」

 このたとえは、一見すると、マタイ25:14以下の「タラントンのたとえ」と似
ているように見えるかもしれません。しかし、ここ、マルコでは、多くの僕た
ちの中で、門番に焦点が当てられています。門番の仕事は、夜起きていること
です。それゆえ、夜の四時(よんとき)、全部に亘って目を覚ましていることが
求められています。終末を意識して生きる、ということは、不眠でいることで
はなく、この門番のように、いつも使命に生きていることなのです。終末を意
識していればこそ、今の時を充実させるべきなのです。

 37節「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていな
さい。」

 この命令は、神の国の教会に生きるすべての人に言い渡された命令です。私
たちにもこの命令が与えられています。日々を充実させて生きることができる
よう、油断することなく、励んでまいりましょう。

(完)


第77回「マルコによる福音書14章1〜11節」
(11/03/06)(その1)

 1節「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たち
は、なんとか計略を用いてイエスを殺そうと考えていた。」

 イエスの、神殿崩壊の予告に始まる、神の国の実現と終末の預言、そして弟
子たちへの忠告は終わりました。物語の焦点は、もう一度、イエスとユダヤ教
指導者との対立に戻ります。
 エルサレムに入城されてからのイエスは、それまでの、ファリサイ派の律法
学者との対立に加えて、サドカイ派、エッセネ派、熱心党など、ユダヤ教のあ
らゆる教派との違いを鮮明にしてこられましたが、特に、祭司長、律法学者、
長老たちから成るサンヒドリンのメンバーとの対立は、抜き差しならぬものと
なっていました(11:27〜)。神殿崩壊の話そのものは、四人の弟子に語られまし
たが、サンヒドリンのメンバーもそのことを伝え聞いていたかもしれません
(14:58)。そのサンヒドリンの主要メンバーである、祭司長たちや律法学者た
ちが、「イエスを捕らえて殺そう」と殺害計画を具体化したところから、受難
物語、十字架への道行きが始まるのです。
 時は、過越祭(パスカ)と除酵祭(アズマ)の二日前のことでした。過越祭と除
酵祭とは、出エジプトの故事に起源を持つ祭りです。出エジプト記12章にある
ごとく、連続して祭られる祭りです。

(続)


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