2012年02月26日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第74回「マルコによる福音書13章14〜20 節」
(11/2/13)(その2)
(承前)

 燃え上がる神殿内は、ローマ兵による殺戮と掠奪の場と化しました。そこに
居合わせた者は、女、子ども、老若の別なく虐殺され、民衆の死者6000人に上っ
たとのことです。
 この現実に起こった無差別殺戮、イエス以前には、ユダヤ教の文書Wエズラ
6:21でほのめかされている程度ですが、イエスの口からはっきり預言されます。
少し飛びますが、

 17-18節「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。そのこと
が冬に起こらないように、祈りなさい。」

 17節は、翻訳では平叙文として表現されていますが、原文では、「ああ、子
をはらんだ胎と、乳を飲む者は、…」です。最も弱い者に最大の犠牲が強いら
れることが、嘆きをもって預言されています。18節の「冬起こらないように」は、
旧約聖書にもその表現はなく、意味不明ですが、実際の殺戮は69年冬に始まっ
ており、イエスはそのことを予告されたのかも知れません。
 さて、現実に起こったことに戻りますが、焼け落ちた神殿の跡は、ティトゥ
スの命令により、かつてそこに神殿があったことなど想像出来ないくらいに破
壊し尽くされ、平坦地とされてしまいました。そしてその後、一ヶ月に亘って
エルサレム市内で殺戮と破壊とがずっと継続され、70年9月26日、エルサレムが
完全に陥落した時点で、エルサレムで殺戮されたユダヤ人の総数は、ヨセフス
によれば100万人、タキトゥスによれば60万人に上ったとのことです。
 こうしてイエスは、神殿崩壊と、旧約聖書に預言されている、いや、それ以
上に大きな苦難として予告されているのですが、この預言を語りかけている十
二人、そして、その背後にいる弟子たちには、ともかく逃げることを勧めてい
ます。

 15-16節「屋上にいる者は、下に下りてはならない。家にある物を何か取り出
そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはなら
ない。」

 逃亡のイメージは、すでに本日の旧約書エゼキエル書7:12-16で、終末に関わ
る出来事の一環として、預言者エゼキエルによって預言されていました。しか
し、そこでの逃亡は、終末の神の裁きの前では、逃亡しても逃れられない、と
いう否定的なイメージでした。しかし、イエスは逃亡を勧められます。
 「屋上にいる」は、文字通りに訳せば、「屋根の上にいる」です。なぜ屋根
の上にいるのでしょうか。それは、ダビデ王のように昼寝をするためであった
り(サムエル記下11:2)、礼拝するためであったり(エレミヤ書19:13、使徒言行
録10:9)、見張るためであったり(イザヤ書22:1)します。しかしいずれにせよ、
たまたま屋上にいた者は、家に寄ることなく、「ともかく逃げよ」です。
 さらに、町にいないで、たまたま畑で耕作をしていた者、これも「町に戻っ
たりしないで逃げよ」です。しかし、なぜ、十二人は、弟子たちは「逃げよ」な
のでしょうか。それは、神殿崩壊は、ただの苦難ではなく、終末の苦難だから
です。

 19-20節「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、
今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださ
らなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人
たちのために、その期間を縮めてくださったのである。」
 しかし、それにつけても、神殿崩壊に際し、なぜ、闘いではなく逃亡が、愛
する者たちへの神のみ心なのでしょうか。それは、神殿崩壊が、神の裁きだか
らです。相手はローマ軍ですが、やはり神の裁きだからです。
 そして、神の裁きであればこそ、逆に、神は逃れの道を用意していてくださ
るのです。逃れの町の思想は、すでに旧約聖書にありました(民数記35:11)。
神のイスラエルに対する裁き、それはバビロン捕囚という形で頂点に達します
が、そこでも神は「残りの者」を守りの中に置かれました(イザヤ10:20、46:3、
エレミヤ31:7)。神殿崩壊に際しても、十二人を、そして弟子たちを、「残り
の者」として犠牲となった多くの命のためにも、悔い改めと、新たな使命のた
めにとっておかれるのです。
 さて、現実のユダヤ戦争に際し、すでに成立していた教会に連なる者たちは、
イエスの言葉に従って、たとえ、「裏切り者」との罵声を浴びせられても、ペ
レアの地に逃れて、教団を守りました。「ともかく自分だけは助かってよかっ
た」というわけではありません。当時のユダヤ教への裁きを踏まえ、当時のユ
ダヤ教がなし得なかった、「すべての民の救い」という使命を帯びて、今度は
自らが迫害に遭っても、その使命に生きたのです。
 私たちも、教会に捉えられた者として生かされています。歴史を踏まえつつ、
使命に生きましょう。一方的に神の御憐れみによって「残された者」とされた
者として生きましょう。(結)


第75回「マルコによる福音書13章21〜27節」
(11/2/20)(その1)

 21〜23節「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と
いう者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや
不思議な業を行い、できれば…(続)」



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