2012年02月05日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第72回「マルコによる福音書13章3〜8節」
(11/1/30)(その3)
(承前)

 試験の時とは、異邦人(ギリシア・ローマ)の支配の時が中心となる時です。
ベリエルという悪魔の力が強大で、様々なことが起こります。しかし、この時
を乗り越えた者は、ピュア(純粋)であるとされ、新たな生への変身のプロセス
が用意されます。メシア到来の時です。クムラン教団の教えによれば、この試
験をくぐり抜けた者自身がメシアなのです。
 このようなクムラン教団の持つ終末思想を背景として、イエスがおっしゃら
れたことは、異邦人支配ではなく、神殿崩壊こそが、試験の時の中心的な出来
事だ、ということです。だから、かつての時代に、戦争や地震や飢餓が、新し
い時代を生み出すための、産みの苦しみとして耐えられたように、神殿崩壊も
耐えられねばならないのです。
 そして、耐え抜かれた時、神のみ心をお示しになられるメシアとしてのイエ
スによって、新しい神の国の教会の時代が拓かれるのです。
 6節の「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言う」の
部分の「わたしの名を名乗る者」が一体だれなのか、多くの説が唱えられてき
ました。しかし、しかし、クムラン教団の終末思想を考えると、答えが明らか
になってきます。
 「わたしがそれだ」と訳されている文は、原文では「Εγω Ειμι(エ
ゴー・エイミ)」と言い、旧約聖書以来、神がご自身を名乗られる時の名乗ら
れ方です。イエスは、終末の時の試験を経て、皆が「わたしがメシアだ」「わ
たしがメシアだ」名乗っている状況について、おっしゃっておられるのです。
しかし、十字架の贖いを経て、新しい神の国、神の支配の時代を拓かれたのは、
イエスのみです。いくら試験をくぐり抜けたとしても、人は人であり、神と等
しくなることはあり得ません。イエスは、クムラン教団に見られる「隠された
傲慢さ」に対して、「人に惑わされないように気をつけなさい」と、警戒を呼
びかけておられるのではないでしょうか。
 こうして、ピント外れの質問しかできなかった四人に対して、結果的に、イ
エスはご自身がメシアであられること、すなわちご自身が神から来られた方で
あることをお示しになられました。この四人は、このイエスの自己啓示を受け
止めることができたでしょうか。できなかったのです。できなかったから、イ
エスの十字架を前に逃げ出してしまうのです。
わたしたちはどうでしょうか。(完)


第73回「マルコによる福音書13章9〜13節」
(11/2/6)(その1)

 9節「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。」

 神殿崩壊予告に始まる、イエスのお話の続きです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、
アンデレの四人の弟子は、神殿崩壊がいつ起こるのか、といった表面的な事柄
にしか目が向いていませんでした。が、イエスは、神殿崩壊が、終末の出来事
の一環として起こることを告げられます。終末の時は、終末の新しい十二部族
の神の国の教会の建設の時ですから、その教会のリーダーとして召された十二
人にとっては出番です。
 しかし、イエスがメシアとして神の国の教会を建設なさるその時を迎えるそ
の前に、試練の時があり、その試練の中心が神殿崩壊なのです。そして、メシ
アたるイエスによる、新たな神の国の教会の建設に召されている十二人には、
試練は、迫害という形で襲ってくるはずです。イエスは、十二人に、「迫害に
遭わねばならない」という、彼ら自身がおかれている状況に目を向けるよう、
促されます。
 さて、それでは、迫害は十二人にどのような形で襲ってくるのでしょうか。

 9節後半「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、
わたしのために、総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。」

 まず、前段ですが、十二人がユダヤ教による迫害に遭うことが言われていま
す。ここで「地方法院」と訳されている語ですが、原語は、エルサレムにあっ
たサンヒドリンをも、ユダヤの各地にあった小サンヒドリンをも、両方を指す
言葉です。小サンヒドリンも、サンヒドリンと同じく、裁判権を持っていまし
た。明確に、ユダヤ教に最後通牒を突きつけ、新しい神の国の教会の設立を宣
言したイエスの弟子である十二人は、当然のことながら、そのどちらかの議会
に引き渡され、ユダヤ教への反逆者とし裁かれることとなるのです。
 イエスに従う者たちに下された判決はどのようなものだったのでしょうか。
後に、ステファノは石打ちの刑にあって殉教しています(使徒言行録7:54〜)。
一方、使徒言行録5:40によれば、ペトロとその他の使徒たちとは、鞭打ちの後、
イエスの名によって話してはならない、と命じられて、釈放されています。状
況によって判断が異なったのでしょうか。しかし、コリントの信徒への手紙二
11:24で、パウロは「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度」
と自分の体験を述べていますので、一般的には鞭打ち刑だったのではないでしょ
うか。

(続)



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