2012年01月29日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第72回「マルコによる福音書13章3〜8節」
(11/1/30)(その2)
(承前)

 イエスが、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて高い山に登られた時、
イエスの服が真っ白に輝き、エリヤとモーセとが現れて、天よりこれはわたし
の愛する子」との声があり、イエスが天から来られた方であられることが明ら
かに示されました。
 さらに、ヤイロの娘を蘇生させられた時、イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハ
ネの三人だけを伴われました。この時、イエスは、ヤイロの娘を蘇生させると
いうしるしを通して、ご自身が「よみがえりの主」すなわち天から来られて、
天に帰られるべきお方であることをお示しになられたのです。
 もう一つ、これは先のことですが、イエスは、ゲッセマネの祈りの時に、ペ
トロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴われます。この三人は居眠りをしてしまい、
イエスのみ心を受け止めることができなかったのですが、イエスは、十字架を
目前にして、祈りにおいて父なる神と一つであられることを、お示しになられ
たかったのだと思われます。
 結局、マルコによる福音書において、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけが、
イエス・キリストの「啓示」の受け手、イエス・キリストがご自身の本当のお姿を
お示しになられる時の窓口だったのです。
 アンデレの立場は微妙です。アンデレは、イエスがご自身を示されたとき、
いずれもその場面に立ち会っていません。しかし、十二人全員が選任されるま
での間は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと行動を共にしていました。すなわち彼は、
つなぐ役割、つまり、三人に啓示された真理を他のメンバーに伝える役割を担っ
ていたのではないでしょうか。
 今日、オリーブ山において、アンデレは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネと共にイ
エスの前にいます。そして、イエスは今、この四人に語ろうとしておられます。
ということはすなわち、これからイエスが語ろうとしておられることが、イエ
スの自己啓示であると当時に、十二人すべてに伝えられるべき内容である、と
いうことなのではないでしょうか。
 しかし、四人がイエスに尋ねたことは、イエスご自身のことではなく、イエ
スが語られた神殿崩壊の予告について、でした。

 4節「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのこ
とがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」

 ここで言われている「そのこと」や「そのことすべて」は、明らかに、イエ
スの言われた「神殿崩壊」を指しています。が、イエスの神殿崩壊の予告は、
単なる神殿批判ではなく、新しい神の国の教会の建設とセットになった出来事
です。となると、これから新たな教会形成の務めが十二人の肩にかかってくる
はずです。十二人がその務めを受け止め得たでしょうか。たぶん、受け止めな
かったでしょう。受け止めていたら、全員がイエスの許へ来たことでしょう。
しかし、この四人だけは、神殿崩壊の出来事が、自分たちにもかかわりがあり
そうだということを、何とはなしにではあったとしても、感じとったのではな
いでしょうか。それで、イエスの許へ来たのです。しかし、質問そのものは、
他人ごととしての質問、ピント外れの質問でした。
 さて、イエスですが、イエスはこのピント外れの質問には答えずに、もっと
も大切なこと、すなわち神殿崩壊が新しい神の国の教会建設の出来事と裏腹で
あること、すなわち終末の出来事であることをみ告げになられるのです。

 5節「イエスは話し始められた。『人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者たちが大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの
人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。
そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、
国は国に敵対して立ち上がり、方々に自身があり、飢饉が起こる。これらは産
みの苦しみの始まりである。』」
 一般に、どの時代、どの社会においても、毎日の生活の中で、どうしようも
ない困難が打ち続くと、今の時代が終わって、新しい時代が始まることを期待
する「終末思想」が流行することがあります。様々な困難が打ち続いたイエス
の時代のユダヤ教においても、本日の旧約書、ゼカリヤ書14章を始めとして、
神の歴史への直接介入という形での、新しい時代への期待がありました。そし
てそれは、神殿礼拝にせよ、律法主義にせよ、現状を肯定する大祭司一派、サ
ドカイ派、ファリサイ派よりも、ユダヤ教の現状を厳しく批判し、ユダヤ教改
革を強く求めたクムラン教団において、もっとも強く表明されました。
 20世紀半ばに、死海のほとりのクムランの洞窟から発見された、この教派の
残した文書、それを死海文書と言いますが、その死海文書全体の中で、「日々
の終わり」ですとか「終わりの日々」ないしは「後の日々」といった終末を表
現する語は、30回以上用いられています。その中で、3回「日々の終わり」と
いう語が用いられている文書が、「終末のミドラシュ」と呼ばれる文書です。
それによれば、「日々の終わり」とは、「試験の時」であると同時に、メシア
到来の時のことです。

(続)



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