2012年01月22日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第71回「マルコによる福音書13章1〜2節」
(11/1/23)(その2)
(前号より続く)
さて、この弟子は、神殿の壮麗さだけに心を惹かれたようですが、神殿は壮
麗さを誇るだけのものではありませんでした。中身もありました。ヨセフスは
その中身にも触れています。
ヨセフスの神殿の記述は、だいたい東から西へと、すなわち女性の庭から聖
所へと向かっていきます。神殿で最もよきところは聖所でした。聖所に至る門、
そこには扉はありませんが、そこをくぐると、そこは天の広がりを感じさせて
くれるところでした。その奥に聖所があります。聖所に入ったところには、高
さ24.75m、巾7.2mの扉があり、その前に同じ高さのベールが吊り下げられて
います。ところが、このベールはバビロニアのタピストリー(つづれ織り)なの
です。青とリネン(亜麻布)と緋とそして紫の刺繍が施されています。そして、
それは宇宙を表しています。緋は火を表し、リネンは地を、青は空気を、紫は
海を表します。人は、地と海とから生まれた、という意味です。聖所に入った
時、人はそこに自分自身を見出すのです。さらに、そこの床は、いくつかの部
分に分かれており、その第一の部分にはランプスタンド(燭台)とテーブルと香
をたく祭壇とが描かれています。ランプは七つあります。これは惑星を意味し
ます。テーブルに描かれたパンは十二あり、それは黄道十二宮の一年のサイク
ルを表します。祭壇には十三の香がたかれている様が描かれていますが、それ
は、海からのもの、地からのもの、荒野からのもの、人の住むところからのも
の、を表します。結局、すべてのものは神から出で、神に帰すことが描かれて
いるのです。
その聖所の奥まったところに、ベールで仕切られた至聖所がありますが、そ
こには何もありません。だれも近づくことのできない、犯すことの許されない、
見ることができない場所です。
このように、壮麗さを誇るだけではない、宇宙が再現された神殿ではあった
のですが、イエスはこの神殿に厳しいお言葉を投げかけられました。
2節「イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石も
ここで崩されず他の石の上に残ることはない。』」
内外共に立派に整った神殿ではありましたが、一方では、エレミヤ書7:1-15
に見られるような神殿批判も、ずっとありました。エレミヤは言います。人々
は、「主の神殿、主の神殿、主の神殿」と、あたかも神殿礼拝を守ることによっ
て神の前に義とされたような気になっている。しかし、実際の社会生活におい
ては、盗み、殺し、姦淫、偽証、そして偶像礼拝まで、平気で行っているでは
ないか。ゆえに、礼拝は成り立たない。神は、空しい神殿を破壊される、とい
うわけです。
イエスの時代、このエレミヤの神殿批判をまともに受け止めて、ユダヤ教の
中でも、クムラン教団は、今の神殿の破壊と、拡大された新たな神殿の建設を
期しています。こうして見ると、イエスの神殿破壊の予告も、ユダヤ教の神殿
改革運動の一変種と見ることもできるのではないでしょうか。
しかし、イエスの神殿破壊の予告は、神殿礼拝が様々の問題点を含むからそ
れを直そう、といった後ろ向きの意向だけではありませんでした。イエスは、
新たな礼拝の始まり、という視点から、神殿破壊を予告しておられるのです。
なぜなら、イエスが来られることにより、神の国、神の支配がついに始まりま
した。人々は、神殿を経由する必要はもはやなく、イエスに直接より頼んで、
イエスを信じて救われるのです。その神の国、神の支配の完成が、いよいよイ
エスの十字架によって成し遂げられる、今やその直前、目前なのであります。
私たちは、神殿によらない新しい礼拝に招かれています。感謝をもって、直
接イエスにより頼んでいきましょう。
(完)
第72回「マルコによる福音書13章3〜8節」
(11/1/30)(その1)
3節「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、
ヤコブ、ヨハネ、アンデレがひそかに尋ねた。」
ユダヤ教に、所謂最後通牒を突きつけられた後、あの立派な第二神殿の崩壊
を予告されたその直後の出来事です。
おそらく、イエス一行が宿を取っておられたベタニア村へ帰って行かれる途
中でしょう。時はすでに夕刻となっていたのではないでしょうか。オリーブ山
で、夕日に向かって座っておられたイエスが、その夕日を受けて、純白に輝い
ていたであろう神殿を見ておられた時の出来事です。
十二人のうち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレだけがひそかに、つまり、
他のメンバーを差し置いて、イエスの許に来て、尋ねました。十二人のうち、
この四人だけがイエスに尋ねた、そして、結果として話を聞いた、ということ
には、何か特別の意味があるのでしょうか。
十字架による罪の贖いの成就の時までは、ご自身の本当の姿をなかなかお見
せにならなかったイエスですが、マルコによれば、十二人のうち、ペトロ、ヤ
コブ、ヨハネの三人だけには、何回か、ご自身の本当の姿をお示しになられま
した。9章におけるみ姿かわりは、まさにその典型的な出来事です。
(続く)
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