2012年01月08日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第70回「マルコによる福音書12章38〜44
節」
(10/1/16)(その2)
(前号より続く)
このような疑問に直面して、この後の出来事、イエスのご判断が、イエスが
本当に目指していたものを明らかにすることとなります。
41-42節「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見
ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいや
もめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。」
出来事は次のとおりです。イエスは神殿の賽銭箱に向かって座っておられま
した。この賽銭箱の位置については、様々な議論がありますが、どうやら女性
の庭の南側の部分のようです。そこに賽銭箱がセットされていました。この賽
銭は、犠牲の動物や器具の獲得と関係のない、つまり直接の見返りを求めない
純粋な献金です。どの通貨が投げ込まれても構いません。ミシュナーによれば、
賽銭箱はホルンの形をしていたそうで、コインが投げ込まれると反響し、その
音で、投げ込まれたコインの種類、数などが分かった、ということです。
また、イエスの座っておられた位置についても諸説紛々ですが、イエスはお
そらく、賽銭箱に向かって座って、見て、聞いていました。群衆、原文では多
くの群衆がコインを投げ入れていました。投げ込まれたコインの種類、数、そ
して勢いから分かったことでしょうが、たくさんの金持ちがたくさんのコイン
を投げ込んでいました。ところが、これも音からの推測と思われますが、一人
の貧しいやもめ(寡婦)が来て、レプトン銅貨二枚、ローマの貨幣に換算して1
クァドランス、今の日本円に換算して五円程度、現在の物価水準を考慮しても
160円程度ですが、を投げ込んだのです。
以上の様子を見、そして聞いていたイエスが、弟子たちを呼び寄せて言われ
たことが以下の通りです。
43-44節「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。
この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れ
た。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている
物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」
イエスが、弟子たち、ここでは状況からして十二人ですが、を呼び寄せられ
るのは、十二人選任の時(3章)以来のことです。イエスの言葉は十二人に厳か
に語られました。このことの意味については、後に触れることと致しましょう。
さて、そこでイエスが言われたことですが、金持ちと貧しいやもめとを対比
させ、献金の生活費全体に占める割合を問題とされました。金持ちは(「有り
余る中から」という訳は正確ではありません)、生活費を差し引いた残りの中
から献金したのに対し、このやもめは、欠乏の中から、持っているものをすべ
て、生活費全部を献金したということです。
そもそも、キリスト教会は、長年に亘って、このやもめの行為を、立派な行
為、模範として受け止めてきました。つまり、教会は、イエスがこの女性の行
為を、模範としてほめられた、と受け止めてきた、ということです。
しかし、この女性が献金を投げ込んだ賽銭箱は、ユダヤ教の神殿の賽銭箱で
す。そして、イエスは今、「ユダヤ教の指導者である律法学者が、やもめの家
を貪る」と非難したばかりです。さらには、そのような罪を抱えたユダヤ教を
否定したばかりです。その舌の根も乾かないうちに、一人のやもめがユダヤ教
の賽銭箱に全財産を投げ入れるのを褒め、弟子たちにも勧める、ということが
あり得るでしょうか。あり得ません。このイエスのご指摘には、今も賽銭箱の
前で、イエスが先ほどご指摘になった、寡婦への貪りが相変わらず行われてい
る、そういうユダヤ教へ痛烈な批判が、暗黙のうちに込められているのではな
いでしょうか。つまり、たとえ良心的なラビがいたとしても、献げ物の多寡に
よって神への忠誠度が計られる神殿のシステムにおいては、貪り続けられる女
性が後を立たないということです。このエピソードは、実は神殿改革の限界を
示すものだったのです。
しかしながら、だからと言って、イエスは、献金について、マイナスの勧め
をしておられるわけではありません。この女性の、精一杯献げた行為は、明ら
かに高く評価しておられます。なぜでしょうか。
それは、この女性のイエスへの献身にあります。この女性の行為によって、
新たな神の国の礼拝が実際に始まったからです。だから、イエスは、弟子たち
を呼び寄せて、しかと見、そして聞かせたのです。イエスは、神の国、神の支
配の到来を告げるために宣教活動を開始されました。そして、その神の国は、
今まさにイエスの十字架によって完成しようとしています。しかしながら、こ
の神の国の教会の礼拝に仕える人はまだいませんでした。十二人もまだわかっ
ていません。しかし、彼女は、イエスの見ている前ですべてを投げ出して見せ
ることにより、イエスの贖いの恵みにすべてを委ねることをやって見せたので
す。イエスのことを知らなかったかもしれませんが、やってみせたのです。そ
れゆえ、彼女は「新しい教会の礼拝者第一号」となりました。
(この項、続く)
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