2012年01月01日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第69回「マルコによる福音書12章35〜37
節」
(11/1/9)(その3)
(前号より続く)
イエスは、神の支配の到来を告げるためにこの世に来られました。そして、
神の支配の完成のために、すべての民の罪を贖うための十字架の死を、今まさ
に遂げようとしておられるのです。これからは、ユダヤ人だけが大切にされ、
他は足蹴にされるという「礼拝」ではなく、すべての民が神の前に、何の障り
もなく出られる礼拝が守られねばなりません。ダビデの子たるメシアであられ
るイエスは、その信仰に対しても、期待通り、いや期待に遥かに勝る方であら
れますけれども、そのなすところにおいては、さらに勝る方であられます。そ
れゆえ、イエスはここで、ユダヤ人のダビデの子メシア期待を、徹底的に打ち
砕かれる必要があったのであります。
律法学者が好んで取り上げるテーマである割には、ここに律法学者の姿も見
えず、その反応もわかりません。が、もしも、とりわけファリサイ派がいたと
したら、イエスに対する殺意を改めて明確にしたことでしょう。しかし、一方、
名もない群衆は、イエスの教えを喜んで受け容れました。信仰の未熟さのゆえ
に、この後多くの挫折を経験したかもしれません。しかし、やがて、これらの
人々の中から、そして異邦人の中からも、神の国の教会の新しい担い手が育っ
て行くのです。
私たちはどこにいるでしょうか。この時、イエスが敢えてメシア宣言をされ
て、この世の真の支配者であられることを明らかにされたがゆえに、私たちは、
足蹴にされる存在ではなくなりました。神の国のメンバーとして迎えられるこ
ととなりました。感謝しつつ、イエスに答えて、歩んでまいりたいものです。
(この項、終わり)
第70回「マルコによる福音書12章38〜44節」
(10/1/16)(その1)
38節「イエスは教えの中でこう言われた。」
宮きよめの後、イエスは、サンヒドリンの代表、ファリサイ派とヘロデ派の
連合軍、サドカイ派、と、ユダヤ教各派との体論を通して、ご自分の立場を明
確にして来られました。一方、サドカイ派を除いては、ユダヤ教各派は、イエ
スへの殺意を明確にすることとなりました。文脈からすると、「大勢の群衆の
前で(37節)」ということになるのでしょうが、「教えの中で」と言われていま
すので、それぞれの相手との対論の中で断片的に言われたことのまとめかもし
れませんが、イエスはいよいよユダヤ教に対する最終的判断を下されることと
なりました。それは、律法学者を非難する、という形をとった、ユダヤ教の全
否定でした。
まず、イエスは律法学者を非難されます。
38節後半〜39節「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き
回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ること
を望み」
律法学者と一口に言っても、それぞれの考え方と個性とがあるはずなのです
が、一緒くたにされて、つまり律法学者であれば全員がそうだ、ということに
されて、名誉や地位が大好きだ、ということが非難されます。「長い衣」と訳
されている語は、本々は「装備」という意味をもっていた語で、要するに「制
服」です。「制服」を着て歩き回り、広場で挨拶されることを望む、つまり尊敬
を受けることを欲していることが非難されます。さらに会堂(シナゴグ)、宴会
で上席に座ることを望むことが非難されます。席順は、今でもそうですが、地
位を表します。当時のユダヤ教の一派、クムラン教団の文書で、厳しく座席順
序を定めたもの、も残っています。上席を望むということは、地位を望むとい
うことで、それが非難されます。
そればかりではありません。以下のことは、さらに厳しく非難されます。
40節「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このよう
な者たちは、人一倍厳しい裁きを受ける子虎なる。」
ここには説明が必要でしょう。古代においては、今よりさらにさらに、夫に
先立たれた女性や、親に先立たれた子どもたちには、生活の危機が待ち受けて
いました。それゆえ、旧約聖書においても、寡婦や孤児を守ることは、宗教上
の課題でした(出エジプト記22:22)。しかし、現実には、宗教家の中には、寡婦
からの支えを頼りにし、それゆえ、寡婦の生活を脅かす者もいたようです。し
かも、その間違いを、見せ掛けの長い祈りでごまかす、ということもあったよ
うです。このような貪り行為は、到底許しがたく、神の厳しい裁きに遭う、と
非難されます。
確かに、地位や名誉をやたら求めることは、宗教家としてはいただけません。
弱い人を貪る、など言語道断です。非難され、厳しく裁かれて当然です。しか
し、一方で、寡婦からの寄付の申し出を、寡婦の立場を考慮して断ったラビの
話も伝えられており、律法学者全員において、いや多くの者においても、これ
らの罪が犯し続けられていたとは考えがたいのです。律法学者ならずともだれ
でもが持ちうる名誉欲のゆえに、さらに一部の者の罪のゆえに、律法学者全体
が否定され、ユダヤ教その者が否定されるというのは、行き過ぎなのではない
でしょうか。イエスがユダヤ教における諸悪を問題とされるならば、否定する
のではなく、改革すべきなのではないでしょうか。
(この項、続く)
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