2011年12月25日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第69回「マルコによる福音書12章35〜37
節」
(11/1/9)(その2)
(前号より続く)
エッサイとはダビデの父ですから、「エッサイの株から出たひと
つの芽」とは、ダビデの子孫のことです。その者に「主の霊がとど
まる」、すなわち聖霊が降るのです。彼は、神からメシア、すなわ
ち救い主としての使命を与えられて、遣わされることとなります。
彼は、神の支配を実現する者となり、3節以下にあるように、神の
み心にかなった支配を行うようになる、とされるのです。
この旧約聖書以来の信仰を受け継いで、新約聖書においても、神
の支配を実現するためにこの世に来られたイエスを、「救い主メシ
ア」との意味で、「ダビデの子」とお呼びすることが多くあります。
特に、系図をもってイエスがダビデの実際の子孫であることを証明
することから福音書を始めるマタイにおいては、1:1からイエスの
ことを「ダビデの子」とお呼びしています。すなわち、教会も、メ
シア、「救い主」という意味で、イエスを「ダビデの子」とお呼び
しました。しかし、ここでイエスは、ご自分が、旧約聖書以来待ち
望まれてきたメシアであられることを否定しているかのような発言
をしておられます。
36-37節「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたし
の主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしが
あなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』この
ようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシア
がダビデの子なのか。」
イエスは、本日の旧約書、詩編110:1をほとんどそのまま引用さ
れます。もともとこの詩編は、王の即位式の時に、宮廷預言者が詠
んだ詩と考えられます。即位しようとしている王は、神に嘉せられ
た王です。神から遣わされた者です。それゆえ、「主」と呼ばれま
す。そして、主なる神はこの王に対して、「わたしの右に座るよう
に、」つまり神と同等の者とされます。その上で、「敵を足台とし
て=後ろ首を踏みつけて」この王の支配に任せられるのです。
しかし、この詩は、1節にあるように、作者がダビデであるとさ
れることによって、その意味が一変します。宮廷預言者が「わが主」
と呼んだ王は、ダビデ王自身が「わが主」と呼ぶ、この世の王より
は一ランク上の方ということになります。そういう方がこの地上の
本当の支配者として立てられているのです。イエスは、この解釈を
取り入れ、メシアが王さえも超えた方であられること、さらには、
ご自身がそれであられることを指し示されたのです。
しかし、ご自身がダビデの系譜に属するイエスは、ご自身がダビ
デの子メシア期待を発展させればいいのであって、ダビデの子メシ
ア期待を否定することはないのではないでしょうか。実は、イエス
はその当時のダビデの子メシア期待のあり方を踏まえて、このよう
な発言をされた、いや、なされざるを得なかったと考えられるので
す。
紀元前1世紀中ごろ、すなわちイエスの誕生の50年ほど前に書か
れた偽典(旧約聖書正典に似せた文書)に、『ソロモンの詩編』とい
うものがあります。その17〜18章には、当時ユダヤで期待されてい
た「ダビデの子メシア」がいかなる者であるのか、明らかにされて
います。もちろん、彼は、神に任命された、義にして、聖なる者で
すから、自分のために富を集めたりすることはありません。彼にとっ
て、神ご自身が本当の王であり、彼は神に望みをおいているのです。
そして、彼は自身の罪においては潔白です。人々を、言葉の力で動
かします。彼は神に信頼していて、揺るぎません。聖霊の助けがあ
るからです。さらに、神は彼に知恵の霊、理解の霊も与えています。
それゆえ、彼は、望みを神に置いて、揺るぎません。すなわち、ダ
ビデの子メシアの人格は、神に忠実な、そして謙虚に仕える信仰者
としての在り様なのです。
しかし、彼のなす政治は峻烈です。イスラエルから不義なる支配
者を追い出します。イスラエルを蹂躙し、破壊する諸民族を追い出
します。罪人には相続させません。罪人の誇りを陶器のように打ち
砕き、金の鞭をもって破壊します。その一方で、彼は聖なる民を集
めます。不義なる者は、その中に住まわせません。聖なる民は、部
族ごとに住まわせ、居留者や外国人は追い出します。義を基準とし
て裁くのです。その上で、彼は、異邦の民を、足のくびきの下に踏
みつけて、従わせます。そのようにして、彼は主の栄光をあらわす、
というのです。
以上に明らかなごとく、当時のユダヤでダビデの子メシアとして
期待された存在は、確かに、神の忠実な信仰者であるかもしれませ
んが、確かに、神の意思を自分の意志とする力を与えられた存在で
あるかもしれませんが、そのなすところは、神に選ばれた民とされ
るイスラエルのみを保護し、守り、他の民族を排除し、しかも足蹴
にすることによって成立する「神の支配」を目指す、ということだ
ったのです。
イエスは、宮きよめの時と全く同じように、この、ユダヤの排他
主義をはっきりと、きっぱりと否定されました。なぜなら、イエス
と共に、ユダヤの排他的民族主義を超えた、すでに新しい時代が始
まっているからです。
(この項、続く)
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