2011年12月18日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第68回「マルコによる福音書12章28〜34
節」
(11/1/2)(その3)
(前号より続く)
しかし、イエスの神の国の到来において、事態はすっかり変わり
ました。イエスは、神の支配の到来を告げにこの世へ来られました。
しかし、神の支配を妨げるものがあります。それは人間の罪です。
罪とは神への背きです。この罪が解消しない限り、神の国は来ませ
ん。イエスは、神の国の完成のために、罪の贖いの十字架に架から
れました。この贖いによって、すべての人が、神との愛の関係に入
れる道が開かれました。神に背く人さえも含まれます。その結果、
隣人を愛することが、そのまま神を愛することに通じるようになっ
たのです。イエスが用いたのは旧約聖書の言葉です。しかし、そこ
に新しい救いの到来の意味を込めて、用いられました。
イエスの答えがこのように画期的なものであったにもかかわらず、
この律法学者は、イエスの答えを適切に受け止めました。
32節「律法学者はイエスに言った。『先生、おっしゃるとおりです。
「神は唯一である。ほかに神はない」とおっしゃったのは本当です。
そして、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、ま
た隣人を自分のように愛する」ということは、どんな焼き尽くす献
げ物やいけにえよりも優れています。』イエスは律法学者が適切な
答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われ
た。もはや、あえて質問する者はなかった。」
彼は、イエスの言われたことが、律法の原文と一致していること
を認めたばかりではありませんでした。第一の戒めと第二の戒めが
一致することも理解しました。なぜ理解できたのでしょうか。それ
は彼の「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」
との言葉から推して、彼が神殿改革を目指していたか、あるいはそ
れに共感していたからではないでしょうか。当時、神殿は立派でし
たけれども、その祭儀の中心となる大祭司は、政治家まがいの人物
でした。「清さ」を求める、敬虔なユダヤ人には、神殿礼拝は大いに
不満のあるところだったのではないでしょうか。エッセネ派は神殿
礼拝から引き上げてしまいました。が、もしも、イエスの言われる
ように、「隣人愛」がそのまま「神への愛」に通じるならば、そこに
新しい礼拝が成り立つはずです。この律法学者はそのことに気づい
たのではないでしょうか。そして、彼は、神の国、すなわち新しい
神の国の教会の礼拝にふさわしい人物として、イエスに認められた
のです。この律法学者が、後に教会のメンバーとなったかどうかは、
定かではありません。が、もしなっていたとしたら、パウロと同じ
働きを、隠れてなしたのではないでしょうか。
神は、どこからでも、神の教会の働きにとって必要な人を起こし
てくださいます。私たちはこのことを、私たちの教会に与えられた
メッセージとして受け止め、教会の働きの更なる前進を目指して歩
んでまいりましょう。
(この項、終わり)
第69回「マルコによる福音書12章35〜37節」
(11/1/8)(その1)
35節「イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。『ど
うして律法学者たちは、「メシアはダビデの子だ」と言うのか。』」
翻訳では省略されていますが、原文には「イエスは答えて」とい
う一言が含まれています。34節に引き続いて、サドカイ派と思われ
る律法の学者の質問に答えて、イエスはこの議論をはじめられたか
のようにも見えます。が、サドカイ派が、ダビデの子メシアを熱心
に待ち望んでいた、とは考えられません。当時、熱心に「ダビデの
子」メシアを待ち望んでいたのは、むしろ、13-17節に登場したファ
リサイ派とヘロデ派の連合軍の方です。ゆえに、この議論は、本来
は17節に引き続いていたのかもしれません。しかし、イエスがだれ
に答えてこの議論を始められたのかは不明であっても、当時エルサ
レム全体に、「ダビデの子」メシアを待ち望む雰囲気があったこと
は確かでしょう(10:47)。イエスは、その雰囲気の元となっている考
え方と対決されたのではないでしょうか。それでは、「ダビデの子」
メシア期待とは何か、なぜ期待するのか、を確認してまいりましょ
う。
すでに学んだように、ダビデ王の時代のような栄光と栄誉とを回
復することは、イスラエルの民の悲願でありました。そこで、ダビ
デの子孫から、再びあのような王が出てほしいという期待は、神が
ダビデの子孫から救い主を起こされる、という信仰へと昇華していっ
たのです。たとえば、イザヤ書11:1-5にも、預言者イザヤの口を通
してそのような信仰が語られています。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの
若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と
勇気の霊、主を知り畏れ敬う霊、彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって
弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の
貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢
いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実
をその身に帯びる。」
(この項、続く)
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