2011年12月11日
〔マルコによる福音書講解説教〕
第68回「マルコによる福音書12章28〜34
節」
(11/1/2)(その2)
(前号より続く)
イエスの答えはこうでした。
29節「イエスはお答えになった。『第一の掟はこれである。「イ
スラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を
尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主
である神を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分
のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。』」
質問は「第一の掟」でしたが、イエスは第一と第二の掟の二つを
セットとして答えられました。しかし、それぞれの答えは決して目
新しいものではなく、当時のユダヤ教でも、律法の基本原理である、
とされていたものでした。
イエスが第一のものとしてあげた、「イスラエルよ、聞け、私た
ちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、
思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」
の出展は、申命記6:4-5です。内容としては、十戒の第一戒そのもの
です。この言葉は、シェマー・イスラエルと呼ばれ、ユダヤ教の基
礎です。敬虔なユダヤ人が、この言葉を覚えるために、この言葉を
書いた紙を箱に入れ、額に結び付けていたという話は、あまりにも
有名な話です。
第二の言葉、「隣人を自分のように愛しなさい」の出典はレビ記
19:18です。この言葉も十戒の後半の基礎であり、ユダヤ教の基本原
理です。イエスの答えは、「ユダヤ人ならだれでも知っている」と
言われかねない答えでした。
しかし、イエスの答えに独自性がなかったわけではありません。
申命記では「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし」となっていた
ところが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽く
して」となっていることです。心はハートの意味です。また、申命
記で魂と訳されている語と、マルコで精神と訳されている語の(ギ
リシア語)原語は同じです。人の命の源となるもの、すなわち魂の
意である、ということです。更に、申命記とマルコによる福音書で
力と訳されている語は、原語は異なりますが、どちらも意志の力の
意です。日本語で、人間の精神の三要素を、「知・情・意」といい
ますが、それに近いものがあります。イエスはその三つに、「思い」
と訳されている語を付け加えました。原語は、「理解」「理性」の
意です。「気持ちだけではなく、理性も用いて神を愛しなさい」とイ
エスは言われたのです。「全身全霊をもって神を愛しなさい。神を
第一としなさい。なぜなら、神はあなたがたを愛してくださったの
だから」というのがイエスのメッセージです。
第二の掟については、レビ記の原文どおりです。が、レビ記が
「兄弟を憎み、復讐することの禁止」の裏返しとして、この掟を定
めているのに対し、イエスは前半を省略して、この掟を「善への勧め」
として位置づけました。そこがイエスのユニークなところです。
しかし、第二の掟については、ユダヤ教のラビの中でも、すでに
ラビ・アキバのように、この掟を肯定的に捉える人もいました。
「イエスもユダヤ教のその流れの中にある」と言えないこともあり
ません。第一の掟についても、イエスがその前文をそのまま引用し
ておられるとおり、イスラエルの人々がすでにこの掟を使命として
受け止めていた、その延長線上にある、とも言えます。
よって、それぞれの答えについては、新しい点もあるとは言え、
ユダヤ人にとって受け容れがたいものではなかったはずです。むし
ろ受け容れやすいものだったのではないでしょうか。ここではイエ
スは、ご自身を「ユダヤ教改革者」と位置づけておられるかのようで
す。
しかし、イエスはこの二つの掟を同列に並べられ、更に一つとさ
れました。この点で、イエスはユダヤ教と断絶されたのです。なぜ
断絶なのか、その点を説明してまいりましょう。
ユダヤ教でも、エッセネ派は第一の掟と第二の掟を同列に並べま
した。が、イエスの教えとは違いました。エッセネ派の教えによれ
ば、この世界の人間は「光の子」と「闇の子」とに分けられます。「光
の子」とは、エッセネ派自身のことです。それは族長たちの正統な
子孫とされます。族長たちは神を愛し、神は族長たちを愛しました。
族長たちと神は愛の関係にありました。この族長たちの子孫がイス
ラエルですが、その中でも正統な子孫「光の子」は自分たちです。ゆ
えに、自分たちは神と愛の関係にあります。そして、自分たち同士
で愛し合うことは、神を愛すると全く同じこととなります。なぜな
ら、神と愛の関係にある者を愛することは、神を愛することそのも
のだからです。しかし、同じイスラエルでも、神と愛の関係にない
「闇の子」がいます。この「闇の子」を愛しても、神への愛とはなり
ません。ゆえに、「闇の子」を憎め、嫌悪せよ、ということになりま
す。これが、エッセネ派の言う隣人愛です。
イエスの言われる「隣人」とは、「光の子」だけのことではありませ
ん。イエスが「隣人」と言われたとき、すべての人が含まれます。
「すべての人」の中には、神と愛の関係にある人も含まれますが、
神に背く人も含まれます。こういう人を愛することが、どうして神
への愛に通じるのでしょうか。エッセネ派の考えによれば「ノー」
です。
(次号に続く)
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