2011年12月04日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第67回「マルコによる福音書12章18〜27 節」
(10/12/26)(その2)
(前号より続く)

 さて、この質問はイエスを引っ掛ける質問となり得るでしょうか。
なり得ません。なぜなら、この質問はそっくりそのままファリサイ
派に向けられてもおかしくない質問だからです。そして、ファリサ
イ派がいかにサドカイ派にとって気に入らない答えを出したとして
も、サドカイ派がファリサイ派を死罪をもって訴追したり、殺そう
としたりすることはないでしょう。そのような事例は一切記録にな
いからです。イエスに対しても同じです。少ない資料から判断する
限りですが、この質問は、論争のための質問であって、引っ掛ける
ための質問ではなかったのです。

 24-29節「イエスは言われた。『あなたたちが聖書も神の力も知ら
ないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から
復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようにな
るのだ。死者が復活することについては、モーセの書の「柴」の箇所
で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。「わた
しはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあるでは
ないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あ
なたたちは大変な思い違いをしている。』」

 イエスの答えは、サドカイ派にとって訴追の材料に全くならない
ばかりではなく、非難する余地さえないものでした。特に、26節の
後半の答えは、説得力のあるものでした。イエスは、サドカイ派が
「これだけは確かだ」としている律法の書の中から、出エジプト記
3:15-16を引用します。ここは、神がモーセにご自身を示されて、
出エジプトの使命を与えられたところです。この箇所は、当時のユ
ダヤ教では「柴」の書と呼ばれていました。「柴」の書で、神はご
自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれまし
た。しかし、サドカイ派が言うように、人間は「死んでおしまい」
だったとしたら、とっくに死んだ先祖、アブラハム、イサク、ヤコ
ブは、この時どこにもいないはずです。神がどこにもいない人たち
の神と言われるのは変な話です。少なくとも、この三人には、復活
して神のみ傍近くにあらせられる可能性がある、ということではな
いでしょうか。ゆえに、復活はある、と言うのです。このイエスの
答えには、サドカイ派も納得せざるを得なかったのではないでしょ
うか。
 さらに、イエスはその先のことも言われます。そもそも復活した
者が神の視野の中にいるのだとすると、それは天使であるというこ
とです。そして、天使が人間関係のしがらみから解放されているご
とく、復活した者もそのしがらみから解放されるということです。
これも、サドカイ派が聖書を本当に重視していたとしたら、納得で
きる議論だったのではないでしょうか。サドカイ派が納得できる道
が開かれた、ということは、イエスも聖書のみを根拠として論じて
おられたからでした。
 彼らの反応はどうだったのでしょうか。マルコは何も記していま
せん。しかし、「大変な思い違いをしている」というご指摘は、
「聖書の読みが足りない」という意味ですから、サドカイ派が本当
に聖書を大切にしていたら、彼らにとって自らを省みる機会となっ
たはずです。
 しかし、この時点で、サドカイ派が少なくとも理屈の上では納得
させられたとしたら、後の教会のメンバーの中に祭司(出身者)がい
てもよさそうなものです。しかし、初代教会に祭司出身者らしき者
の姿が見えないのはなぜでしょうか。それは、たとえ復活を頭で理
解したということがあったとしても、実際に復活したイエスに出会
うことなしには、復活を信じたことにならないからです。
 私たちも、新たに生きるためには、理屈の上で分かることにと止
まるのではなく、洗礼を受け、復活のイエスの命を戴くことが必要
とされています。

(この項、終わり)


第68回「マルコによる福音書12章28〜34節」
(11/1/2)(その1)

 28節「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエス
が立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、
どれが第一でしょうか。』」

 サドカイ派のグループの中にいた一人のサドカイ派の律法学者が、
イエスに近寄ってきて、質問しました。好意を持って、だったので
しょうか。それとも、悪意をもってだったのでしょうか。判断は難
しいのです。「立派に」と訳されている語ですが、日本語で「立派
に」と言うと、プラス評価しかありませんが、原語には「正確に」
とか、「上手に」という意味もあり、中立的に訳すこともできます。
好意か、悪意か、は文章では伝わりにくい、雰囲気の問題となりま
す。ここでは決め付けないで、両方の可能性があるということで、
読み進めてまいりたい、と思います。
 ところで、質問の内容はどのようなものだったのでしょうか。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」この問いは、ユ
ダヤ教への改宗者のためのテキストブックの中でも取り上げられて
います。当時よく問われた問いのようです。律法全体を解く鍵は何
ですか、という意味でもあり、ラビの考えを聞くには、よい問いで
した。

(この項、続く)



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