2011年11月20日

〔マルコによる福音書講解説教〕

第66回「マルコによる福音書12章13〜17 節」
(10/12/12)(その2)
(前号から続く)

 ヨセフスの古代誌18.1.1によると、キリニウスがシリアの総督で
あった時、彼はユダヤに赴き、ユダヤ人に税金を課すことを決めま
した。ユダヤ人は、課税のための富の登録をせよ、との指令にショ
ックを受けましたが、当時の大祭司ヨアザルが「これ以上反対する
な」と説得したため、多くの者は自分の財産を登録しました。しか
し、ガウランティスのガマラ出身で、ファリサイ派のザドクの支援
者であったユダは、これに納得せず、反乱を起こしました。紀元後
6年のことです。
 彼は、「課税は正真正銘の奴隷状態に至る第一歩である、ユダヤ
人は独立を得ようと努力すべきである、もしも成功すれば、ユダヤ
人は反映の基礎を築くこととなるし、もし失敗したとしても、高遠
な理想を目指したことに対する名誉と名声を得る、天は熱心なる助
け手であるからして、堅く立ち、流血にも尻込みするな」と訴えま
した。民衆がそのアッピール(煽動)を歓迎した時、戦争は起こり、
ヨセフスによれば、もはや制御できないくらい荒れ狂った、とのこ
とです。殺人、収奪、暗殺が行われ、そのうち内輪同士での虐殺が
起こり、最後に飢餓、そして町は焦土と化しました。
 こうして、この反乱は完全に鎮圧されることをもって終結するの
ですが、ヨセフスによれば、ユダとその師ザドクの影響は後々まで
残った、と言います。すなわち、暴動と破壊とを政治的緊迫性のゆ
えに肯定する考え方です。ヨセフスによれば、ユダとザドクの後継
者は、サドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派に次ぐ「第四の派」
であるゼーロータイ(熱心党)と呼ばれます。この派の影響力が、ど
の程度サンヒドリンの中に浸透していたのか、確かなことは不明で
す。しかし、ファリサイ派を通じて、ゼーロータイに近い、ないし
は共感する議員がいたことも、ありえないことではありません。そ
れらの議員が、税金問題で考えを同じくするファリサイ派、ヘロデ
派の者をイエスのところへ遣わし、ゼーロータイの立場からイエス
を試した、ということもありえないことではないのではないでしょ
うか。
 もし仮に、イエスに対する質問が、ゼーロータイの立場からのも
のであったとするならば、イエスにとって「納税すべし」と答えた時
の方が危険です。なぜなら、裏切り者として暗殺の対象になる可能
性があるからです。
 さて、イエスはこり危険な問いにどのように答えたでしょうか。

 15-16節「イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。『なぜ、
わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさ
い。』彼らがそれを持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖
像と銘か』と言われた。彼らが、『皇帝のものです』と言うと、イ
エスは言われた。『皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさ
い。』彼らはイエスの答えに驚き入った。」

 質問は納税するかしないかですから、答えは結局、イエスかノー
しかありません。イエスは、はっきりと「納税せよ」と言われまし
た。イエスは最も危険な答えを出されたのです。
 デナリオンは、新約聖書では代表的な貨幣単位です。しかし1デ
ナリオンは1ドラクメにあたります。ということは、同じ貨幣単位
を表すのに、デナリオンとドラクメと二つの単位が同時に用いられ
ていたということです。さらに、コインにも種類がありました。そ
して、その中でデナリオン銀貨は、皇帝(カエサル)の肖像と銘とが
あるがゆえに、ユダヤ人にひどく嫌われていました。あるラビは、
「カエサルのデナリを見た途端、井戸に捨てる。ただし、そうっと
…」と言っています。また、ユダヤでは墓にコインを一緒に埋葬す
る風習があったようですが、ある人の墓を発掘したところ、見つかっ
た192枚のコインのうち、デナリオンは6枚しかなかった、というこ
とです。なのに、イエスはわざわざデナリオン銀貨を持って来させ
ました。ということは、イエスも質問者もデナリオン銀貨を持って
いなかったということです。そして、わざわざカエサルの像と銘を
確認して、つまり、税がローマ国家の権威の下に課されていること
をわざわざ確認した上で、「納税せよ」と答えたのです。質問者か
らすると、最悪の答えであり、直ちに裏切り者として暗殺されるべ
きでした。しかも、イエスの答えはそれで終わりませんでした。
「神のものは神に。」要するに、税金は献金の延長線上にある、と
いうことです。献金をすることによって神に権威を帰すように、ロー
マに税金を納める、ということは、ローマの権威を認めるというこ
とです。神によって認められた国家はユダヤだけではない、ローマ
もそうだ、というわけです。ゼーロータイの立場からすれば、最悪
にして、最低の答えです。暗殺の対象であるばかりではなく、訴追
の対象です。質問者は、恐れ入ったのではなく、怒りに震えたこと
でしょう。この時、逮捕されたり、暗殺をされなかったのは、状況
が許さなかった、という理由だけでしょう。すべての民が神の支配
下、恩寵の下にあるように、との神のみ心を求めるイエスに、十字
架の時は、ますます近づいて来ました。

(この項、終わり)



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